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【第151回 芥川賞 受賞作】 『春の庭』 柴崎友香
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【第151回 芥川賞 受賞作】 『春の庭』 柴崎友香

2014-07-14 12:00
     二階のベランダから女が頭を突き出し、なにかを見ている。ベランダの手すりに両手を置き、首を伸ばした姿勢を保っていた。
     太郎は、窓を閉めようとした手を止めて見ていたが、女はちっとも動かない。黒縁眼鏡に光が反射して視線の行方は正確にはわからないが、顔が向いているのはベランダの正面。ブロック塀の向こうにある、大家の家だ。
     アパートは、上から見ると・「・の形になっている。太郎の部屋はその出っ張った部分の一階にある。太郎は中庭に面した小窓を閉めようとして、二階の端、太郎からいちばん遠い部屋のベランダにいる女の姿が、ちょうど目に入ったのだった。中庭、と言っても幅三メートルほどの中途半端な空間で雑草が生えているだけ、立ち入りも禁止である。アパートと大家の家の敷地
    を隔てるブロック塀には、春になって急激に蔦が茂った。塀のすぐ向こうにある楓と梅は手入れがされておらず、枝が塀を越えて伸びてきている。その木の奥に、板張りの相当に古い二階建てがある。いつも通り、人の気配はない。
     女に視線を戻す。まったく同じ位置を保っている。一階の太郎の部屋からだとブロック塀に遮られて屋根ぐらいしか見えないが、二階からなら大家の家の一階や庭も見えるには違いない。しかし、そんなに変わったものがあるとも思えない。大家の家は、赤く塗られた金属板の屋根も焦げ茶の壁板も、傷みが目立つ。一人で住んでいた大家のばあさんが介護施設に入所して、もう一年になる。家の前を掃除するのを見かけたときは元気そうだったが、八十六歳になるらしい。不動産屋から聞いた。
     屋根の先には、空と雲が見えた。朝からよく晴れていたが、雲が出ている。真っ白の塊。まだ五月だが、真夏のような雲だった。ああいう雲は何千メートルの高さがあるって言うな、と太郎は雲の盛り上がって飛び出しているところを見た。空の深い青とコントラストが強すぎて、目の奥が痛んだ。
     雲を眺めていると、太郎は、雲の上にいる自分を想像した。いつもした。長い長い距離を歩いてやっと雲の縁にたどり着き、そこに手をついて下を眺めている。街が見える。数千メートルも隔たっているのに、細かく入り組んだ街路の一本一本、ひしめき合う一軒一軒の屋根も、鮮明に見える。道路を極小の虫のような自動車が滑っていく。街と自分の間の空間を、小型飛行機が横切る。そこだけアニメの絵だ。ガラスの覆いがついた操縦席には誰もいない。音もない。飛行機だけでなく、どこからもなんの音も聞こえない。ゆっくりと立ち上がると、空の天井に頭がつっかえる。誰もいない。
     そこまでの一連が、幼い頃から必ず浮かぶ光景だった。二階端のベランダを見る。さっきはなかった白い四角形の一部が見える。いつのまに。女は、手すりのところに画用紙、いや、スケッチブックを置いていた。木でも描いているのか。ベランダは南向きで、庇はない。今は午後二時。随分眩しいに違いない。
     女は時折、身を乗り出した。そのときだけ、顔が見えた。眼鏡に短いおかっぱ頭。二月に引っ越してきた。何度かアパートの前でも見かけたことがあるが、三十歳過ぎ、自分と同じか少し年下といったところ、と太郎は見当をつけていた。背が低く、いつもTシャツやスウェットなど代わり映えのしない格好をしている。画用紙の向こうで、ぬーっと女の首が伸びる。頭をこちらに向かって傾ける。太郎は、そのときになってようやく、女が見ているのが正面の大家の家ではないと気づいた。太郎の部屋がある方向、大家の隣の家。水色の家。
     ぴーっ、ぴーっ、と鳥の甲高い鳴き声と、枝葉が擦れ合う音が、突然響いた。次の瞬間、女と目が合った。太郎が目を逸らすより前に、女はスケッチブックごと引っ込んだ。サッシが閉まる音がした。それきり出てこなかった。
     水曜の夜、仕事を終えて帰宅すると、アパートの外階段の上に二階の住人がいた。先日ベランダにいた女ではなく、その隣の部屋の住人。随分前から住んでいるらしい、太郎の母親より少し年上に見える女。太郎の住むアパート「ビューパレス サエキ ・」は一階と二階に四部屋ずつあり、部屋番号ではなく干支がふってある。玄関側から見て、太郎のいる一階左端から右へ順に、亥、戌、酉、申、二階へ上がって未、午、巳、辰。今時は表札にもポストにも名前は出さないところが多い。この人は「巳」室なので、太郎は「巳さん」と認識していた。顔を合わせると必ず声をかけてくる、愛想のいい人だった。
     巳さんは、階段の上から一階を窺っていたが、太郎が玄関
    前に立つのを見計らって、降りてきた。いつも頭の天辺で髪をまとめ、着物をリメイクしたらしい変わった形の服を着ている。今日は亀柄のもんぺに、黒いシャツ。
    「あのー、鍵を落としませんでしたか?」
    「えっ、鍵?」
     太郎は思わず自分の手元を見た。鍵はしっかりと握られている。
    「これ ……」
     巳さんが顔の前にかざした、茸のフィギュアがついた鍵には、確かに見覚えがあった。
    「朝、ここに落ちてたんです。でも、持ってらっしゃいますね、鍵」
    「それは事務所の鍵で
    す。会社の。家に忘れてきたんだと思って。ありがとうございます」
    「あー、よかったです、こんなおばさんが突然鍵なんか持ってきたら怪しまれるんじゃないかと思って心配でした。取ったんじゃないですよ、ほんとに落ちてたんですよ」
    「だいじょうぶです。ありがとうございます」
     巳さんは近づいてきて、鍵を差し出す。太郎は受け取る。とても背の低い巳さんは、太郎の懐に入り込むように見上げた。
    「じゃあ今日はお仕事できなかったんですか?」
    「……あ、いえいえ、会社はぼく一人じゃありませんから、ほかにもいますから」
    「ええ、あー、そりゃそうですね、ばかですよね、わたし。すみませんでした」
    「いえ」
     太郎は、鞄の中にままかりの味醂干しが入っているのを思い出した。出張帰りの同僚の土産だが、太郎は魚の干物が全般に好きではなかった。
    「これ、よかったら。お礼っていうほどでもないですが」
     巳さんは、好物なのだと大変によろこんだ。そんなによろこばれては申し訳ないと思うほどのよろこびようだった。ありがとうございますありがとうございますと繰り返しながら、跳ねるように階段を上がっていった。
     太郎は、巳さんから渡された鍵を見た。茸のフィギュアはカプセル入り玩具の販売機で自分が買ったものだった。しめじ。しかし、エリンギもついていたはずである。ものをなくすいので、目立つようにつけていた。ちぎれたのかと思ったが、紐も金具もない。音が鳴るものに変えようかと思いつつ、帰り道にコンビニで買ってきた炭火焼き牛カルビ弁当を電子レンジで温めた。缶ビールも開けた。
     干していたタオルを取り込むついでに二階端「辰」室のベランダを見上げたら、窓には明かりがついていた。あれから三日経つが、女の姿は見ていない。
     ままかりをくれた同僚の沼津は、火曜は出張で岡山だったが、月曜は休みを取り二泊三日で釧路に行っていた。先月結婚して、相手の実家を訪ねたのだった。相手が一人娘で珍しい名字ということもあり、沼津は先月からその名前に変わった。旧姓を使い続けている別の同僚もいるが、気に入った名前だからと沼津は名刺も作り直した。太郎は新しい名前に慣れず、まだ沼津と呼んでいた。
     昼休みにままかりと北海道土産の鮭とばを配ってから、沼津は名前が変わるとかは別に全然よかったが墓のことは考えていなかった、と太郎に話し出した。実家は静岡の、自分の名字は沼津だが沼津ではない漁港で、燦々と日の当たる斜面の蜜柑畑に囲まれた寺の墓に入るとなんとなく想像していたから、冬は極寒の森の中にある墓地を見たらなんだかさびしい気がしてきた、と言うのだ。女の人だったら嫁ぎ先の墓に入ることはすんなり受け入れているのか、見知らぬ人に囲まれて居づらくないだろうか、とあれこれ投げかけてきた。
     太郎は真面目に考えて答えた。
    「最近では融通がきくというか、選択肢はあると思いますよ。樹木葬とかあるらしいし。うちの父親は分骨して散骨しましたから」
    「そしたらおれ、実家の庭に埋めてほしいです。子供のころ飼ってた犬がチーターっていうんですけど、埋まってるからその隣に」
     沼津の兄が拾ってきた雑種は目頭に黒い模様があってチーターみたいで、鶏ガラが大好物で、小学校までついてきて困った、年取ってからは腰が悪くなって散歩にも出られなくなったが長生きし、予想以上に大きくなったので穴を掘って埋めるのは大変だった、とチーターの十一年分を五分ほどにまとめて沼津は話した。途中で何度か涙ぐんだ。
    「骨の形が残ってると死体遺棄になっちゃうんで、完全に粉にしないとだめらしいですよ」
    「やったんですか」
    「結構硬くて難儀しましたね」
    「燃えたあとだからすかすかなのかと思ってました」
     太郎の父親は骨が丈夫で、虫歯もほとんどなかった。八十歳で歯が二十本を余裕で達成できそうだったのに、六十歳を目前にして死んだ。もう十年近く前だ。ということは太郎が東京に住んで十年が経つことになる。
     予想より硬かった父親の骨を粉にした茶碗サイズのすり鉢と乳棒は、大阪の実家から東京に持って来て、今でも太郎の部屋にある。三年前に離婚した女と暮らしていた三年のあいだも、そのセットを当時の食器棚の奥に置いていた。間違えて使いそうだし、そんなに大事なものならしまっておいたら、と元妻は何度も言ったが、太郎は置き場所を変えなかった。整理が悪いからどこにしまったかわからなくなる心配もあったし、見えるところにないと、父が死んだことを忘れそうだった。父のことも、死んだことも、忘れているのではないかと思うことがときどきある。
    「どうするかなあ。死んだときに考えるんじゃ間に合わないでしょう。釧路、寒いっすよねえ、大自然でいいけど、寒いっすよねえ、寒いの苦手なんすよねえ」
     死んだら寒くないよと太郎は言いかけたが、そのとき唐突に、沼津が自分に向かって話しているのではないのがわかった。心に浮かんだことを口に出しているだけで、回答を求めてはいないと。マンションの一室にある事務所にはそのとき、太郎の他にも二人いて、会話は耳に入っているはずだったが、誰も加わってこなかった。
     沼津は釧路の土産として鮭とばもくれたが、太郎はそれもとりあえず食器棚に突っ込んだ。それから、食器棚、といっても本棚を流用している棚の上から三段目、グラスやマグカップの奥を確かめた。父親の葬儀の二日後にホームセンターで買ってきたすり鉢と乳棒。すり鉢にしたのは間違いだった。溝に入った骨がなかなかとれなかった。洗って流すのは気が引けた。だから今も?でひっかいたような細い溝に白い粉が残っている。ほとんど見えないが、残っているはずだった。父の骨は、郷里の墓と実家の仏壇の隣に置かれている。粉にした分は、釣りによく出かけていた愛媛の岬の沖に撒いた。風に吹かれ波に流され、見えなくなった。すり鉢から離れない粉と元は同じ骨だった粒子。あれは父親のどの部分だったか。父親の体の中に、ほんとうにあの白く硬いものが入っていたのか。あれが座ったり歩いたりしていたのか。太郎は、小学生のときに鉄棒に額をぶつけて切ったことがあるが、そのとき同級生たちが骨が見えると次々にのぞきに来たのに、自分だけが結局見られなかったことが今でも心残りだった。
     缶ビールは冷えすぎていた。リサイクル店で買った冷蔵庫は最近、おかしな音がする。
     金曜の朝、出勤しようと太郎が玄関ドアを開けたら、アパートの前を右方向に歩いて行く「辰」室の女の姿が目に入った。ドアを半分開けた状態で見ている太郎には気づいていないようで、前を見たまま歩いて行く。駅とは反対の方向である。考えた、なにをどういうふうに考えたのかは自分でも判然としないが、一瞬考えたのち、太郎は女と同じ方向へ歩いた。
     女は、アパートの隣の、敷地いっぱいまでコンクリートの壁に囲まれた巨大な金庫のような家の前をゆっくり歩き、その角を右に曲がった。太郎は、女が曲がったのを見届けてから、同じように角までたどった。コンクリート金庫には中庭があるらしく、外に向かってはほとんど窓がない。今はシャッターがぴったり閉じている車庫からイギリス製の四輪駆動車が出ていくのを見たことがあるが、住人を見かけたことはなかった。コンクリート壁の角で立ち止まり、女が歩いて行ったほうを覗いた。
     女は、コンクリート金庫の先にある、水色の家の前で立ち止まっていた。身長の低い体を伸ばし、塀の中を見ようとしている。女は、首を伸ばしながら左右に揺れ、それから再び歩き出したが、顔はずっと水色の家のほうに向けられていた。皺の寄ったシャツにスウェットパンツ、整えていない髪に無理にニットキャップを被っている。人に見られるとは思っていない格好である。眼鏡にニットキャップなので、かなり怪しく見える。そして、白い塀に沿って右に曲がっていった。
     水色の家は、確かに目立つ建物だ。洋館ふうの建物である。横方向に張られた壁板は、明るい水色に塗られている。赤茶色の瓦の屋根は、平べったいピラミッドのような角錐型で、天辺には槍の先形の飾り。
     ぐるりと囲む白い塀には、左官のこて跡が鱗模様を描いている。路地からは建物の二階しか見えない。左側にベランダ、右側には縦方向に開く小さめの窓が二つ。どの窓も、枠は屋根と同じ赤茶色に塗られている。 門扉は黒い金物細工で茨を象っており、それ越しに見える玄関扉の脇にも植物モチーフのステンドグラスがはめ込んであった。太郎には区別がつかないが、菖蒲やアイリスの類い、群青色と緑色と黄色で構成されている。太郎の部屋からは、この家の、玄関とはちょうど反対側の部分が見える。そこにも、赤蜻蛉を図案化したステンドグラスの小窓があった。
     太郎は、小学校の遠足で行った神戸の異人館を思い出したが、この水色の家はそれらに比べるとなんとなくバランスがい
    悪いと感じた。一見すると趣と歳月を感じる建物なのだが、しばらく眺めていると、屋根と壁とステンドグラスと塀と門と窓と、それぞれが別のところから寄せ集めたように見えてきた。
     門扉右側、ガラス板の表札を見ると「森尾」と彫られている。この家はしばらく、少なくとも一年近く空き家だったはずだ。いつの間に引っ越してきたのだろう。玄関脇には子供用の自転車と三輪車。門の左側、塀の外に二台分ある駐車スペースには、家とよく似た水色の軽自動車が止まっていた。
     敷地の三分の一ほどは、庭になっている。アパートから離れている側だから、太郎の部屋からは庭は見えない。路地の角にあたる場所の、塀の内側に大きな百日紅の木がある。樹皮がまだらにはがれた滑らかな幹で、太郎にもすぐにわかった。その向こうに二本、中くらいのと小さいのと落葉樹ものぞいている。この家の前はたまにしか通らないが、この百日紅は紫色、中くらいの木は白い梅、小さいのは山桜みたいな花だった覚えがある。
     百日紅の下まで来て太郎は再び歩みを止め、女が曲がった右方向をうかがった。女は、三十メートルほど先の角をさらに右に曲がりかけていた。右、右、右。つまり、アパートへ戻る。
     太郎のアパートは、車がやっと一台通れる幅の路地に囲まれた区画にある。その区画には四つの建物があり、敷地は上から見るとちょうど田の字に区切られている。アパートがあるのがその左上の角だとすると、右側は敷地いっぱいまでコンクリート金庫、右下の敷地が洋館ふうの水色の二階建て、左下が大家の古い木造家屋になる。
     女は、その田の字の周囲をぐるりと一周しようとしているらしい。
     女が曲ったのを見届けてから、太郎も百日紅の角を右に曲がった。水色の家のほうを見上げると、ベランダに面した窓にも縦に開く窓にも白いブラインドが降りていた。ベランダには、洗濯物も物干し竿もなかった。
     太郎が、次の角、大家の家の門があるところまできて、女が歩いて行ったほうを確かめると、案の定、女はアパートに入っていくところだった。大家の門前には、軽ワゴン車が止まっていた。白い車体に「デイサービス」の文字が並んでいる。大家だったばあさんが施設から戻ってきたのだろうか。しばらくそこに立っていたが、出入りする人の姿もなく物音もしないので、太郎は、角を曲がらずにまっすぐ歩き、そのまま駅へと向かった。

    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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