一人の愛好家が死んだ。
モーニングセットを食べるついでに喫茶店の棚から手に取った実話系週刊誌を読んでいたサトウは、スツールに座ったまま姿勢を正し、当該記事を読み直す。
「背中にハローキティの刺青!? 多摩川支流で見つかった身元不明男性遺体に囁かれる“噂”」
九日午前八時四〇分頃、東京都西多摩郡奥多摩町の多摩川支流栃寄大滝で、男性が倒れているのを釣り人が発見後、一一〇番通報した。
警視庁青梅警察署の署員が駆けつけたが、既に死亡していたことが確認された。
記事によれば発見時において死後数日が経過していると推定された男性は、黒色ビキニパンツのみ着用、前手に回した両手首には手錠がかけられており、水深約四〇センチの浅瀬にうつ伏せの状態で倒れていた。背中と右脚には特徴的な刺青が彫られており、鼻と口元に粘着テープが貼られていた跡、腹に数カ所の刺し傷があった。近くの山林内に男性のものとみられる服とバッグが落ちており、現金や石膏、マッサージオイルなどが発見されたものの身元を確認できるようなものや遺書は入っていなかった。腹を刺すのに使われたとみられる刃物の類も見つかっていない。
人里離れたところで変死体が見つかる程度の事件は珍しくもないが、この遺体には特徴があった。捜査関係者の話によると「新聞等で報じられた記事中の『特徴的な刺青』とは、実は右の太股には『ぼくは豚野郎だワン』という文字が、背中一面にはハローキティが大きく描かれたもの」。
また、こんな噂もある。性風俗に精通した業界関係者によると「マゾをこじらせ常人では考えられないような辱めの刺青を入れるSM愛好家は沢山いる。SMプレイの最中に事故死したと思われる変死体も、国内で年に数体は見つかっている」そして「背中に大きなハローキティの刺青を彫ったマゾヒスト男性がかつて業界で名をはせたことがある。愛好者の中ではよく知られた人物で、同一人物なのではないか」
一〇日に司法解剖済みであり、警視庁捜査一課などは自他殺両面で調べを続け……
午前六時半という早い時間帯であるにもかかわらず、オフィス街に立地する創業二八年の地元密着型純喫茶店内も入店した一〇分ほど前と比べて込みあってきている。あえて外資系カフェチェーン店を避ける嗜好の客達が多く訪れているのだろう。隣の席に若いOLふうの女が腰掛けたこともありサトウは広げていた週刊誌を閉じた。モカブレンドコーヒーの残りを飲みながら、思索する。
勝手な辻褄合わせに過ぎないと、サトウはできるだけ冷静になろうとする。それでも、一つの結論から逃れようはなかった。記事中のいくつかの点が、それを決定的なものとしていた。
黒色ビキニ、手錠、腹部の刺し傷、鼻と口にテープを貼った跡、石膏、マッサージオイル、そしてなにより背中と右足に彫られた「特徴的な刺青」。該当するのはサトウの知る人物に間違いなかった。
クワシマ。
週刊誌や新聞の死亡事故記事と官報の行旅死亡人欄の“正しい”読み方をサトウたちに教えてくれた張本人であり、まぎれもない真性マゾヒストであった男。
かねてより切腹プレイを至上の目標とかかげ日々研鑽を積んでいた彼が、ついに自ら死亡記事の中の人物となった。そして、このテクストの読み方を知るサトウが読み終えた今、クワシマの目標はようやく完遂されたのかもしれなかった。
鼻と口元に残っていたというテープ跡が、志の高さを物語っている。切腹に窒息プレイの快楽まで合わせたとは、並みの精神力ではない。鋭い刃先が柔らかい皮膚と臓物を裂く瞬間、酸欠による快楽状態の中でクワシマはなにを感じたのだろうか。知人が実際にやり遂げてしまったという事実により、想像が想像の域を超えてしまい、サトウの身体は苦痛と快楽に蝕まれた。
そしていっぽう、死んだのがクワシマであるということはわかっても、他のことに関してはわからないことだらけであった。
生と死の綱渡りをしている最中、クワシマの意識の中に、彼岸へは行くまいとする自制心はちゃんとはたらいていたのであろうか。サトウが見てきた限りでは、クワシマというわがままな奴隷男に自殺願望など一切なかったはずだ。たまに飲めば、石膏を入れたバスタブの中で身動きがとれず死にそうになった話を楽しそうに何度でもした。あの生気にあふれた顔が、強烈に思い出される。
生きて戻るつもりだったとして、立会人がいたはずだ。
共通の知り合いである六人の女王様のうち、誰が立ち会ったのであろうか。マゾヒストの欲望から察するに、女王様に刺してもらった可能性が高い。そしてその誰かは、奴隷の腹を深く刺しすぎるというミスで生死の境界をも突き破り、クワシマが向こう側へ行ってしまうのを止めることができなかったということなのだろうか。
自分自身の強烈な勃起に気づいたサトウは、週刊誌を股間の上に置いた。
東京証券取引所の前場が終わった午前一一時半、ヤナイ課長の大声がフロアー中に響き始めた。
「午前の手数料売り上げ報告いくぞ、ウチヤマから」
顧客に株や投信、債券等を売りつけ取引手数料を稼ぐリテール部門では刻一刻と変化する株価や為替相場を見ながら顧客へ電話連絡をとったり訪問で商品を受注するという手順を踏むことから、前場と後場それぞれの取引開始時刻と終了時刻が一日に四回訪れる区切りとなっていた。
「三二万です」
「よし、午後からは外まわって投信獲ってこい。特にキャンペーン商品、どれも麹町に抜かれたままだからな。次」
「三〇〇〇です」
「は? 三〇〇〇万じゃなくてか?」
「はい、三〇〇〇円です、申し訳……」
「馬鹿野郎、おまえみたいな奴にも給料いくら払ってると思ってんだ? それでも金玉ついてんのか? 支店の皆に迷惑かけてんじゃねえぞ、死ぬ気でやれ、八万達成するまで立って電話してろ、後場が始まるまでに達成できてなかったら殺すからな。次っ」
サトウにとり、ここ日本橋支店は三店目の配属先であった。支店長や課長といった役職クラスの上司たちが日々恫喝を繰り返すという点ではどこも同じだ。入社八年目のサトウはある程度要領よく仕事をこなせるようになっており、たまに売り上げが悪い日に受ける恫喝にも耐性がついてしまっていた。国家公務員Ⅱ種試験を受け各公共団体に就職できるおおよその上限年齢である満二八歳という節目を通過してしまって以後、対面型証券会社という斜陽産業に身を置くサトウの覚悟は決まり、転職を考える機会も激減した。
※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。
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