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【第152回 芥川賞 候補作】 『影媛』高尾長良
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【第152回 芥川賞 候補作】 『影媛』高尾長良

2015-01-07 11:57
     波波迦の木の葉が緩(ゆっくり)と揺れている。彼女は襲衣(おすい)を肩まで滑(すべ)し、爪立って黒葛(つづら)巻の細刀を波波迦の木の枝に当て、押し切った。
      宙に舞う糠の様な粉を払い退け、腰の帯に枝を挟み入れて彼女は手近の枝へと移った。
      直截な尿(ゆまり)の臭いが樹々の間を破る。柔(にこ)やかな尾が、逆しまへ樹を駆け上がる中途で、風をはらんで高く揚がったまま静止する。樹々の内を探る栗鼠の二粒の眼が疾くぴ、ぴと四方へ奔り動く。其の先に、灰色の線がついと宙を掻き乱し、其の風に煽られて羽撃(はたた)きながら枝に停まる。枝の縁に堅い鉤爪を食い入らせると、烏は頑丈な嘴を開け、一声啼き、光る翼を拡げて幾許(いくばく)か飛ぶと、再び枝に停まる。
      葉の間に青い衣がちらと見え、彼女は咄嗟に樹の後に身を隠した。物部(もののべ)の館を出て来てから何刻も経っているだろう。宮の舎人(とねり)等が布留川に沿って歩んでいるのだった。先の大王(おおきみ)が崩(かむあが)ってから未だ一ト月も経っていない。未だ続いている殯宮(もがりのみや)へ、闘鶏(つげ)の氷室の氷を運んでゆくのだ。
      一塊の雲の様な力強い香りが、生(あ)れては消える事を繰り返している。一本一本の樹の脇を抜ける度に、萌したばかりの小さな葉と、萎み果て老いた葉の臭い、樹皮、木の実の香り、全てが雑ざり合い、甕の中に置いた蛇の様に深く沈み入り、やがて、頻(し)く頻く降り注ぐ雨の音を貫く一ツの声が浮かび上がる。まるで彼女自身の奥処で語っているかの様だ、と彼女は思う。瞬く間に数多の声が顕れ出る。年を経た樹の幹、若草の茎の内を貫く管、葉の表裏に縫い廻らされた筋、咸(ことごとく)が語っている。樹々の気、獣の吼(うた)き、鳥の声、山野に木霊するあらゆる韻が、彼女の眉間を搏ち叩き、胸の内で心の臓の鳴りの芯を僅かずつ造ってゆく。鮮(あたら)しく灼(あらた)かな其の声は、物部の館の一室で女等を前に神寄せを執り行う時、彼女に憑いて喋る御祖(みおや)の詞とは懸け離れている。彼女は愧じる様に頸を振り、波波迦の木の枝を撓(たわ)ませて細刀を当てた。
      俄かに、間近で絞め付けられた様な叫び声が上がった。
      川の辺の一処に婢(はしため)等が身を寄せ合い、石の様に立ち竦んでいる。川の辺に晒していた布や衣を取り入れに来たらしく、幾人かは蝶の羽の様な羅(うすもの)を掴み、一人は畳んだ布を堆く腕の上に積み上げたまま、遠い樹の間を凝(じ)っと見詰めている。彼女は樹の間から走り出、高く声を上げた。
    ――虬(みずち)かや。
      婢等は振り返るが、険しい巌を登っている様に逼(せま)った息を吐くばかりで何も云えずにいた。
    ――かの峯の間。青きものの、飛び行きたり。
      一人の婢が唇を震わせて云うと、もう一人の婢が声を上げて頭上に輝く陽に乞う様に腕を差し伸べた。
    ――媛(ひめ)。言賜(た)べ。
      幾つもの喉が音を立てて劇しく息を吸い込み、口々に昂ぶった声を上げる。
    ――完き巫(かんなぎ)なれば、知り給うらん。
    ――媛。
    ――青きものの、ゆらゆらと行きたるを。
    ――其の波波迦の木にて、太占(ふとまに)に占い給え。
      物部の女の中で、巫として彼女に並ぶ者は無い。彼女は岸まで歩み出、峯に眼を凝らした。何も見えない。
      彼女は低く云った。
    ――先の大王の魂ならん。
      婢等は面を見交わした。彼女は言を探りながら川水の面に眼を落し、思わず瞬いた。水に浸かった一ツの石の上で、小さな翡翠色のものが陽の光を反した。水に映っている彼女の篠(すず)の様に細い眼が揺らぎ、面が幾ツも畳(たた)なわると瞬く間に水の面を白い泡が覆い尽くし、やがて静かに均されていった。
    ――未だ大王が魂の、彷徨い給える徴なり。彼の大王が御父も、其のまた御父も、崩りましてより埋み果て奉るまで、等しき色合の影ぞ峯を往けると聞きたり。
      背の後で、婢等が黙り込むのが分かった。闇雲の怯えが静かな畏れへと静まった様だった。彼女は屈んで翠の柔らかなものを拾い上げ、婢等から離れながら呟いた。
    ――如何なる魂も、墳(うごも)ちし土の下には坐(いま)さず。
      生い茂った樹の間に入ると、涼しい風が膚に触れた。彼女は一度包み込んだ掌を開けた。翠鳥(そにどり)は眼を閉じていた。傷の無い少(わか)い羽根が根蓴菜(ぬなわ)の様に長くしっとりと張り付き、橙の腹は未だ息づいていた。頸を指で挟むと、緩と締め付けた。鋭く長い上嘴から、一房の白い羽が生えた耳元にかけて長細い裂け目が浮き出し、黒い血が徐々に滲んで赤い足が宙を蹴り始めた。彼女は息を止めて指の尖に力を込め、食い込ませた。手纏(たまき)に纏いた玉釧(たまくしろ)が膚の上で冷たく緊まる様に感じた時、小さな躰からふうと力が抜けた。
      彼女は屍を地に落とした。歩み出そうと、面を上げるなり立ち竦んだ。
      五本の樹を間にして、長すぎる裳を地に引き摺って立った女童が、火照った頬を樹に押し付けて此方を視ていた。同母妹(いろも)だった。不意に妹は手を上げ、生れた時から見えない右眼を擦った。妹は笑んでいる様だった。彼女は背を向け、歩み出した。次第に足が速まっていった。布留川から引いている水を満々と湛えた石上溝(いそのかみのうなで)を横に見ながら、部の館と数多の室、刀一千口(ふり)を納めている総柱の庫の間を縫って館に戻った。
      身舎(もや)の廻りには邪を祓う赤土(はに)が散らされ、そこはかとなく椿油の匂いが漂っていた。室に入ると、母は、長い金の耳飾を付けながら彼女を仰いだ。
    ――影媛。神寄せの刻なり。
      彼女が憑き神となって御祖を降ろし、物部に伝わる詔琴(のりごと)を弾く事は、一月前に大王の崩ってから毎日の様に続いていた。彼女が枝を母に渡すと母は咲(わら)って呟いた。
    ――此の頃鹿猪(しし)狩る事も無きを。
    ――鹿が肩骨かや。……得る事も有らば、太占に占わん。
      彼女は耳飾を付けて戸を開け、中つ屋の屋根を越えて、山の稜(かど)を望んだ。山鳩のくぐもった声が、間近く聞こえた。なだらかな石上の山並は西日を受けて鏡の様に輝いている。
      母は領巾(ひれ)を被って出て来ると、眼を伏せて云った。
    ――汝の完き巫なると云う印。今日ぞ、媼(おうな)に乞わん。太子(ひつぎのみこ)の御言有らば、……
     彼女は母を遮って頷き、神寄せの室へ向かった。母が後からそっと附いて来るのを感じながら、虚(うつ)けた様に眼が泳いだ。
      父の麁鹿火(あらかい)は太子が彼女を聘(あと)う事を望んでいた。大王が崩って暫くは言を控えていたものの、殯も終わりに近付いて来ると、再び言を尽くして太子の心を彼女に向けさせようと図っていた。十歳の太子に比べて彼女が遥かに年長けている事を麁鹿火は終(つい)ぞ慮ろうとはしなかった。物部の未通女(おとめ)の内で最も年嵩であり、また巫として世に知られた彼女を措いて、太子の妃(みめ)に相応しい女(むすめ)は、物部のみならず、他の族(うから)にもいない、と云うのが物部の男等の挙って云うところだった。
      神寄せの室の前で、廊の床の一隅に婢が躰を丸め、床を布で拭いていた。門の方から響いて来る蹄の音に、彼女は振り返った。


    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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