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【第154回 芥川賞 候補作】『シェア』加藤 秀行
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【第154回 芥川賞 候補作】『シェア』加藤 秀行

2016-01-12 15:59

    「ふさわしいか、ふさわしくないか。それこそが、」
     元ダンナからメールが届いていて、それ以上読まなくても重い中身と分かる。
     飛行機のタラップをまたぐと同時に、カーソルもメールタイトルを素早く「またぐ」。一瞬以上カーソルが乗っかっていると既読判定されちゃうから。
     平常心、平常心。
     もう若くもないのだから、深夜便に乗ると自分でも気づかないような深いところで疲れてしまう。私はいま、携帯でメールチェックをすべきではなかったのだ。そんなに急を要するメールが来ることもないのだし、彼からメールが来ているであろうことは、容易に想像が付いたのだから。
     そう思ってみても、望んでもいないボールを馬鹿正直に受け取ってしまったことは事実で、そのことが無性に私を苛立たせる。
     羽田の動く歩道の上に立ち止まり静かに進みながら、違うことを考えようとする。そういえば元奥さんを略した「モトオク」という言葉の平板さを取り上げた小説は、あれは何だっけ。ふと左手を見ると、朝日に照らされた飛行機がつるりとした実にさわやかな表情でこちらを見ている。計算され尽くした、世界で一番抵抗が少ない表情をしているに違いない。思わず私は自分の顔をなでる。
     モトオク、モトオク。
     私からすると「モトダンナ」かあるいは「モトオット」か。オットセイみたい。確かに何となくオットセイみたいだな、と彼のボテッとした身体のラインを思い浮かべながら、私は入国パスポートコントロールに並ぶ。便が重なったのか、早朝なのに珍しく混んでいる。誘導に従い列の後ろに付いて、改めて携帯を取り出す。慎重にモトオットのメールを「またぐ」。
     未だにガラケーを使っているのは、私が東南アジア各国で絵文字を配信するサーバーの管理をしているから。携帯会社同士、相互に絵文字の体系が違うので「変換する」サービスが必要になる。私はベトナムで、そのサーバーの管理をしている。
     ふと目を上げると、列が進む。私も合わせて前に進む。
     直線に並んだ羽田のパスポートコントロールは、常に無駄が無くて美しい。振り返ると、入口では係員が弛みなく誘導して常に全体最適が図られている。上から見下ろしたらテトリスのようだろうか。凸凹を作らず、溢れもさせず。テロを見抜くでもなく病原菌を防ぐでもない、単に整列させて処理能力を競うだけの「入国審査官」みたいなゲームをアプリで作ったら案外ウケるかもしれない。
     テトリスがロシアで生まれ日本でも流行ったのは、どこか必然のような気がしてくる。

     私が元ダンナと別れてからだいたい一年が経つ。離婚手続きは完了していない。
     立ち上がったばかりのネット系のベンチャーをデザイナーがいないからという理由で「ちょっと手伝ってあげて」と友達から言われてバイト気分で手伝いだした。
     当時三人しかいなかった会社は気づけば五十人以上の大きな所帯になり、二、三年後の上場を目指して更に拡大を続けている。私は社長をしていた元ダンナと付き合って結婚し、すぐに別居して会社を抜けた。
    「さすがネット系。手出しも早けりゃ逃げ足も早い」
     この話をする度に友人から茶化される。
    「私が、元夫が?」
    「両方」
     キャッシュが無いから、という理由で(元ダンナは二言目には「キャッシュ」と口にする人だった)結婚指輪代わりにと会社の株を結構な分量私にくれた。
     ベンチャーキャピタルが入る前だったし、あの頃の彼は夢見がちで「社会の仕組み」に無自覚だった。それが今や次の投資ラウンド交渉の足かせになっている(と主張してくる)。
     元ダンナは「あの株はお前に相応しくなかった」と言い私は「私の所有物だ」と主張する。お互いの主張は、天国まで果てしなく続くエスカレータのように長く平行線を辿っている。
     付き合いたての当時、エンジニアリソースが足りないから(つまりキャッシュが無いから)開発のスピードが出ない、と深夜ベッドの上で頭を抱える当時彼氏だった社長の横顔を見てプログラミング言語のルビーを勉強し出した私は、別れて抜けるときには気づけば社長よりも技術責任者のタカと話す時間の方が多くなっていた。
     私の誕生月が七月だったこともあって「あの頃金は無かったけど、俺はミワに株とルビーをあげたんだ」彼は昔、会社の皆によく言っていた。
    「今やどっちも宝物だよ」


     羽田から池袋までバスで戻る。湾岸道は空いていて、その上をまっすぐ走っていく車内にも殆ど客はいない。後ろの方に座り、ラップトップを改めて開いてメールを処理する。時折ビルの間を抜ける朝日がモニターに反射して眩しい。思わず目を細める。
     私がオンラインになったと気付いたのであろう、元ダンナから矢継ぎ早にチャットが届く。
    「おかえり。メール見たか」
    「次いつオフィス来る」
    「話を終わらせたい。なるはやで連絡頼む」
     その上何で勝手にネクストアクションが私みたいになってんのよ。
     もう社員じゃないし、家族でもないし。ていうか眠いし。
     そう思いひとまず投げられたボールの無視を決めこむ。ボールはミットに収まらずバス後方、ガラガラの道路に点々と転がって置き去りにされていく。既読にしないよう、揺れるバスの中、トラックパッドを動かし右肩の閉じるボタンをそっと押し込んで中指を離す。
     その動作が呼び起こしたかのように、ぽこん、とミーちゃんからチャットが飛んでくる。
    「埋まる率とうとう九割こえますね!」
     ベトナム人のミーちゃんは時制が苦手。いつも通り「どっちだよ」と突っ込みたくなって、今月超えたの、来月超えそうなの、どっち、と思ったまま返信する。すると即座にテンション高く「こえるよ!」と返ってきて、眠いながらも苦笑してしまう。
     おそらく来月の予約が沢山入ったのだろう。
     大きく欠伸をして、座席のパイル生地を手のひらで撫でながら、ときおりビル間を細く抜けた朝日に照らされる「こえるよ!」という平坦な文字列を眺めていると、ざわついた心がすこしだけ落ち着いてくる。

     私はミーちゃんと旅行者用の宿泊部屋を運用している。米国発のウェブサービスで、本来の趣旨は「余った自分の部屋を旅行者にシェアして、短期ホームステイさせて宿泊費を稼ぐ」はずだが、私たちはそれ用に部屋を借りて「運用」している。
     厳密に言うと日本の法律上はグレーだ。サービス提供側もその辺りはきっちり分かっていて、サーバーは日本に置いてないだろうし、振込み先は北欧と手が込んでいる。部屋を貸す側には「我々はあくまで情報の仲介業なので部屋を貸す方はしっかり現地の法律を守ってくださいね」と実際は一ミリも思ってもないであろうことを、丁寧に、しかし執拗に伝えてくる。

    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。

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    posted with amazlet at 16.01.07
    加藤 秀行
    文藝春秋


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