りゃんさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
A :『野火』の紹介(ウィキペヂア)
・『野火』(のび)は、大岡昇平の小説。 1951 年に『展望』に発表、翌年に創元社から刊行。作者のフィリピンでの戦争体験を基にする。死の直前における人間の極地を描いた、戦争文学の代表作。。
題名の「野火」とは、春の初めに野原の枯れ草を焼く火のことである。この作品にはカニバリズムが出てくる。
丸谷才一は『文章読本』(中央公論社、 1977 年)において、修辞技法の個々の技法を説明する際、例文をすべて本作品とシェイクスピアの諸作品に拠った。
・あらすじ
太平洋戦争末期、日本の劣勢が固まりつつある中でのフィリピン戦線が舞台である。 主人公の田村は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からは食糧不足のために入院を拒否される。現地のフィリピン人は既に日本軍を抗戦相手と見なしていた。この状況下、米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、全ての他者から排せられた田村は熱帯の山
そのときぼんやりおもったことを、今の自分の言葉で言えば、
ここに日本人の戦争イメージの原型のひとつがあった、
これと空襲被害(原爆ふくむ)、沖縄戦、それに加害性(「慰安婦」など)をあわせれば、
ほぼ全部じゃなかろうか、ですね。
のちに渥美清の「拝啓天皇陛下様」のシリーズなどを見て、戦後のある時期までは、
戦争はもっと多様なイメージで語られていたが、淘汰され消失したんだなとわかりました。
孫崎さんの引いている(自分はまったく覚えてませんでしたが)
「この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺かれたらしい人達を私は理解できない」
という部分ですが、野火が発表された当時は、大岡にも読者層にも「戦争を操る少数の紳士諸君」の意味が明確だったのでしょう。
しかし今のわたしたちは、「朝夕配られて来る新聞」自体が戦争を極端に煽っていたこと、その新聞の背景にはコミンテルンのスパイがいたこと、一方ルーズベルトは日本を戦争に追い込むべく極端な経済制裁をおこなっていたことなどを知っています。とはいいつつも、結局戦争を選んだ日本の指導層が「少数の紳士諸君」なのか?
その一方でいまの北朝鮮をみていると、米の産軍複合体が悪いとか小国が生きていくためにしかたないということで妙に同情するヒトビトがいて、コマに使おうという思惑から援助する大国(ロシアのこと)もいて、なにか免責すらするような雰囲気が感じられることもあります。そうすると、当時の大日本帝国が中途半端に大国であったことが悪いのか?
謎は深まるばかりですが、まあ、謎と感じなければ、お気楽なことです。
Post