それは農耕民族と島国根性です。
13年前、組織営業を助けるシステムを営業する際、よく言われたのは「我々が農耕民族だから・・・」です。この場合、その続きは間違いなく「そんなシステムは要らない」ですので言い始めたらもう結論が分かります。
当時、根性と勘に頼る個人営業を、ネットに繋がる携帯電話システムで組織的営業に変えることは、全く新しい試みでした。理解できない、もしくは理解できてもチャレンジしたくない方々が居るのは普通のことですが、私が嫌だったのはその言い訳でした。
「農耕民族だ」は構いません。「必要がない」も構いません。しかし、この二者を繋げるところがとても強引且つ傲慢に感じました。言っている本人は正々堂々でしたが、提案に来ている私も農耕民族であることを忘れています。
「お前の考えは納得できない。帰ってくれ」と言うならば何の問題もありません。営業は所詮、ニーズのあるところに行かないとダメですから、理解できないからと言ってしつこく説得する暇はありません。
ところがいい年の良い立場にいる方が礼儀正しく私を立派な応接間に招きながら、「農耕民族」の特性を長々語るのは耐え難いものがありました。その方々の多くは都会生まれ都会育ちの方々で、ベランダにある奥さんの花に水をやったこともありません。
それにも関らず農耕民族の属性から心情まで語るとはどういう神経とどういうロジックを持っているかが不思議でした。「私も農耕民族だけど」と言う気にもなりませんでした。ただただこの人と一緒になりたくない一心で早く逃げ出したい気持ちでした。
この「農耕民族」とほぼ同じ頻度で出てくる言葉がもう一つあります。
それは「島国根性」です。どちらも「自分も良くないと思うが、仕方がない」というニュアンスで使われます。「君が正論だが、我々ニッポン人には無理だ」という理屈です。
考えてみればイギリスも島国ですし、台湾もオーストラリアも島国です。各大陸も実は大きな島に過ぎません。世界の陸地は全部島です。日本は大きな島でもなく小さな島でもありません。ゆえに島としての特殊性は何一つありません。
ましてや数十年前から情報化とグローバル化が進んで来た結果、北朝鮮のような国を除けば世界中に「島」となる国はもう存在しないのです。
今日になれば、スマートフォンなどを使った営業支援システムが当たり前になりました。ソフトブレーンの社員はどこに行っても、もう「農耕民族だから」とか「島国だから」と言われなくなりました。それだけITに支えられる組織営業が当たり前になってきた証拠です。
しかし、新しいものは常に生まれます。今日から新しいものを提案する人達は、きっと間違いなく「農耕民族だから」「島国だから」と言われるでしょう。
「日本には資源がないから」という台詞も多かったです。それは事実としても、資源のない国は他にもたくさんありますし、「だから製造業にいつまでも拘る」という結論に必ず結び付くロジックはおかしいです。
ディベートを学ばない日本の学校から、ディベートの基本を知らない大人を輩出させるのです。因果関係がしっかりしていないのに強引にその因果関係を使って勝手な結論を導き出す。本来、このような議論の仕方は相手によって指摘されます。
偉い方に反対意見を言うと「無礼だ」と思われる日本では、基本的なロジック破綻も指摘されないのです。それが無理なロジックと定説が蔓延する土壌となります。
そろそろ立場や属性で議論することを止めるべきです。内向き議論の遠因になっています。