p_fさん のコメント
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A -1 ; 事実関係
【ローマ共同】ローマ法王フランシスコは 2 日、ローマ・カトリック教会が今後、死刑制度に全面的に反対する方針を明らかにした。教会はこれまで、ごくまれに死刑が容認されるケースがあるとしていたが、一切認めない立場に変更した。ローマ法王庁(バチカン)が発表した。
法王は極めて深刻な犯罪を行った者にも人間の尊厳はあるとして「死刑は人間の尊厳への攻撃だ」と指摘した。教会は世界から死刑制度が廃絶されるよう働きかけていくとも表明した。
法王はこれまでも死刑反対の立場を取っており、米連邦議会での演説で死刑制度の廃止を訴えたこともある
A-2 ワシントン・ポスト「死刑で、ローマ法王は米国の信徒と異なる( On death penalty, popediverges from his U.S. flock )(
・ローマ法王の「全てのケースにおいて死刑に反対」は米国を含め
有無を言わさず人を殺したことが「削除ボタン クリックで消去しました」と言っている風に聞こえた所為だ。
死刑制度の是非を問われても、私は(とりあえずこれまでは)縁遠い生活のために断言できない。
廃止論者の亀井静香氏が「遺族の方にしてみれば犯人を八つ裂きにしてやりたいとの思いもあるでしょうが、文明国が国家の名の下に人を殺すことは やはり あってははらない」旨語っていたと思うが、自分が遺族だったら果たして同調できるのか...
天木直人氏がイラク開戦に反対された時、その代償の大きさはご承知だったと思うが、自らの良心から「間違った戦争だ」と公言せざるを得ない立場に幸か不幸か当時は置かれていた。私は残りの人生、そこまでの決断、判断を迫られることがないようにと願うばかり...
しかし、やはり辺見庸氏の言葉には説得力があると思う-
「(人間は)存在によって有罪ではない。ということは、極刑というのはありえないのです。あってはならない。それを国家の制度にしてはならないのです」
「紛うかたない殺人であるにもかかわらず、関係者すべてを無人格化してしまう。たくさんの人間がかかわっているにもかかわらず、無人称化してしまうのです。それこそが、国家による殺人の本質ではないかと私は考えております...色も音もにおいも消してしまう。人が想像するきっかけを消し去る。だれでもない者が、音も色もにおいもなしに、消しゴムで字を消すように、人を殺す・・・・・・。そのようなことがあっていいのか、許されていいのか...犬、猫の殺処分には十分すぎるほどの想像力を働かせ、しきりに悲しみ、涙を流すけれども、人間の殺処分には、国家の思惑どおりに、想像力を停止させてしまい、反対するどころか、一滴の涙も流さない...これこそ、この国の消費資本主義の、一見慈愛に満ちた、そのじつ、無慈悲な循環であり、システムではないかと思います」
「死刑制度をどう考えるか。その答えのいかんで、その人の思想や世界観の一端どころか、おそらくはいちばん大事なところが見えてきます...法律の分野だけでなく、文学、芸術、教育━━すべての領域で、死刑制度をどう考えるか、問い直さなければなりません...これにしっかりと答えることは、私たちの生き方そのものに関わるのではないかと私は思います」(2000.06.25講演@神田パンセ)
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