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2日ローマ法王、全ての死刑に反対声明。米国は国全体及びカトリック教徒の半数は死刑支持。ただしニューヨーク州を含め、ほとんどの東北部州、ミシガン、アイオア州など中北部州は死刑を認めず、カルフォルニア州は最後の死刑実施が10年以上前。テキサス実施。、
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2日ローマ法王、全ての死刑に反対声明。米国は国全体及びカトリック教徒の半数は死刑支持。ただしニューヨーク州を含め、ほとんどの東北部州、ミシガン、アイオア州など中北部州は死刑を認めず、カルフォルニア州は最後の死刑実施が10年以上前。テキサス実施。、

2018-08-06 07:30
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A-1;事実関係

【ローマ共同】ローマ法王フランシスコは2日、ローマ・カトリック教会が今後、死刑制度に全面的に反対する方針を明らかにした。教会はこれまで、ごくまれに死刑が容認されるケースがあるとしていたが、一切認めない立場に変更した。ローマ法王庁(バチカン)が発表した。

 法王は極めて深刻な犯罪を行った者にも人間の尊厳はあるとして「死刑は人間の尊厳への攻撃だ」と指摘した。教会は世界から死刑制度が廃絶されるよう働きかけていくとも表明した。

 法王はこれまでも死刑反対の立場を取っており、米連邦議会での演説で死刑制度の廃止を訴えたこともある

A-2 ワシントン・ポスト「死刑で、ローマ法王は米国の信徒と異なる(On death penalty, popediverges from his U.S. flock)(

・ローマ法王の「全てのケースにおいて死刑に反対」は米国を含め

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そのむかし、法学部出身の友人と飲んでいた時、

近代刑法はなんのために整備されたか、
そう問われたことがある。

彼はわたしのいくつかの答えを退けたのちに言った。

答えは被疑者、被告を保護するため。
(善良な)市民たちの強い攻撃性から。

民衆というものは「悪い奴」に厳罰を科すのが大好き。
その罰が不当なほどの厳しいものであっても一向に
構わないと考える性質がある。

米国では司法の未発達の時代が長く続き、リンチが
横行した。
その刑罰は常に死刑。
窃盗犯ですらも。

今の死刑廃止国は、ほとんどが先進的な思想を持つ
指導者のトップダウンで決まりました。

No.1 70ヶ月前

わたしは宗教者というものにはあまり大きな信頼を
置いていない。
だから彼らが死刑囚の耳にゴタクをならべ、囚人の
精神の安寧を図り、死刑制度の重要な協力者であることに
違和感はない。

でも医者は別だ。
なぜ死刑に協力するのか。

執行された死刑囚を検分し、「はい、ちゃんと死んでいます」
と「診断」し、死刑は初めて完了する。
これが医者のなすべき仕事なのか。
ヒポクラテスの誓いとの整合性はどうなのか。

日本医師会で医師が死刑に協力してよいのか、と言う議論が
巻き起こったという話は聞かない。

医者は何をしている。

No.2 70ヶ月前

生老病死のサイクルのなかで、「自然死(老衰死)=餓死の道」と「人為的な手段による死」に分かれるのでしょう。

人為的手段での死では、次の3つをあげてみた。

①人工中絶の死が圧倒的に多いのでしょう。米国では、1990年以降減少傾向にあり、何でも自由の国で何でも柔軟に取り入れるというイメージはだんだん消えかけている。米国人との結婚では、一生を共にする覚悟がないと、子供を作らないことが賢明という。

②寝た切り老人の延命治療。口に食べる力がなくなっているのに胃ろうをつけたり、呼吸する力がなくなっているのに人工呼吸器で息をさせるなどは、欧米では取らなくなっている。

③死刑。今回取り上げられている問題であるが、人間は生まれながらにしての殺人者などがいるとみるべきでなく、生きていく成長の中で、さまざまな障害を運悪く乗り越える環境になく、邪道の道に入り込んでしまったという人がほとんどでしょう。どんな人でも、最悪の環境に置かれ、刑罰の対象にならない道を間違いなく選択出きるかといえば、多くの人が「NO」でしょう。人間が人間を殺人する行為は、許されるものではないとみるべきです。

No.3 70ヶ月前

オウム実行犯13人の「集団処刑」があっての記事と思いますが、あのニュースには反射的に何か厭なものを感じた。
有無を言わさず人を殺したことが「削除ボタン クリックで消去しました」と言っている風に聞こえた所為だ。
死刑制度の是非を問われても、私は(とりあえずこれまでは)縁遠い生活のために断言できない。
廃止論者の亀井静香氏が「遺族の方にしてみれば犯人を八つ裂きにしてやりたいとの思いもあるでしょうが、文明国が国家の名の下に人を殺すことは やはり あってははらない」旨語っていたと思うが、自分が遺族だったら果たして同調できるのか...
天木直人氏がイラク開戦に反対された時、その代償の大きさはご承知だったと思うが、自らの良心から「間違った戦争だ」と公言せざるを得ない立場に幸か不幸か当時は置かれていた。私は残りの人生、そこまでの決断、判断を迫られることがないようにと願うばかり...
しかし、やはり辺見庸氏の言葉には説得力があると思う-
「(人間は)存在によって有罪ではない。ということは、極刑というのはありえないのです。あってはならない。それを国家の制度にしてはならないのです」
「紛うかたない殺人であるにもかかわらず、関係者すべてを無人格化してしまう。たくさんの人間がかかわっているにもかかわらず、無人称化してしまうのです。それこそが、国家による殺人の本質ではないかと私は考えております...色も音もにおいも消してしまう。人が想像するきっかけを消し去る。だれでもない者が、音も色もにおいもなしに、消しゴムで字を消すように、人を殺す・・・・・・。そのようなことがあっていいのか、許されていいのか...犬、猫の殺処分には十分すぎるほどの想像力を働かせ、しきりに悲しみ、涙を流すけれども、人間の殺処分には、国家の思惑どおりに、想像力を停止させてしまい、反対するどころか、一滴の涙も流さない...これこそ、この国の消費資本主義の、一見慈愛に満ちた、そのじつ、無慈悲な循環であり、システムではないかと思います」
「死刑制度をどう考えるか。その答えのいかんで、その人の思想や世界観の一端どころか、おそらくはいちばん大事なところが見えてきます...法律の分野だけでなく、文学、芸術、教育━━すべての領域で、死刑制度をどう考えるか、問い直さなければなりません...これにしっかりと答えることは、私たちの生き方そのものに関わるのではないかと私は思います」(2000.06.25講演@神田パンセ)

No.5 70ヶ月前

>>5
>自分が遺族だったら果たして同調できるのか。

あなたは遺族ではないのでしょう。
身内に死刑囚もいないのでしょう。

だったら死刑制度について独立した人格として均衡のとれた
考察ができるとは考えないのですか。

No.6 70ヶ月前
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