フレデイ タンさん のコメント
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私達日本人のほとんどが 、 枕草子 を随筆の最高傑作の一つと習い、目に触れてきている。
枕草子の第一段は 「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」で始まる。冬については「冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。 昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃 ( すびつ ) ・火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし」とある。
確かに、あけぼの詩情を呼び起こす。芭蕉の「曙や白魚白きこと一寸」や一茶の「曙の空色衣かへにけり」等がある。こうしたあけぼのについての他者の描写と、、枕草子とを比較してみると、曙の描写では。清少納言は群を抜いて素晴らしいことが解る。
それにしても何故「春はあけぼの」になるのか。春にはもっと代表的とされるものがある。
ブログに「蕪村俳句の
日本と同じく島国のイギリスでは言語の母体はゲルマンですが、ラテンの言葉も入って来ていて、混血して、現代英語になっているように、日本語も大和言葉と漢語が混血して、現代日本語になっています。
私たち日本人はこれらの古典を紐解けば、いつでも日本語の原型に戻れるのです。しかも、文学というジャンルで戻れるのです。このことは日本人にとってラッキーなことだと思ってます。英国ではせいぜいシェイクスピアからだと言いますし、彼の作品は混血後の限りなく現代英語に近い英語です。
日本語が激しい変動が無く穏やかに発展した理由は、騎馬民族に征服されなかったからだ、と専門家は指摘しますが、勿論、そういうこともありましょうが、王朝時代の女性の文学志向の存在も忘れてはならないと思うのですが。
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