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フレデイ タンさん のコメント

あの鬱屈した戦時体制から我々を解放したのが強大な米軍だった。冬でも半そでで元気なGI。やせ細った我々子供にはまぶしかった。家族や親せきに戦死者がいたのに米国を歓迎して受け入れた。それは私の間違い無い倒錯。しかし、私は米国が好きだった。

1960年前後、東京には、米国の租界が、あっちこっちに、あった。話で聞く上海の共同租界、フランス租界と同様のものが東京にあったのだ。私の片思いのエアホステスがパイロットと会食するサパークラブは確か六本木にあった。その界隈は日本ではなかった。横浜も殆ど全部が米国の租界だった。本当に懐かしい。

当時、若い私には、国家なんか必要なかった。安保反対。コスモポリタンを気取っていた私には「何故?」でしかなかった。

今、香港の若者が「米国の租界に香港をしてもらいたい」と願う気持ちは1960年前後に東京・横浜に暮らした私には理解出来る。私にとっては東京、横浜は解放区だったのだ。

そういう時代に魚本大使がいらした。大使に真の愛国者を感じますね。

No.2
45ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 1980年、二度目の在ソ連大使館勤務を終えて、本省に帰ることとなりました。魚本大使が、「孫崎、一緒に食事をしよう」と言われ、昼食を共にしました。食事が始まるやいなや、魚本大使は、「君も本省に戻れば課長になる。それで一言言っておきたい」と切り出されました。私は「君も課長になるのだから、もう少し周りを見て行動しろ」と忠告を受けるものと覚悟しました。在ソ連大使館では、私は比較的好き放題の発言をしたのです。 「外務省では課長というポストは重要だ。それで政策が作られていく。外務省は課長には好きなように仕事をさせてくれる。自分の信念に基づいて最後までやり抜け」。  そして、魚本大使は、自分が北米局 安全保障課長をしていた時のことを話始めました。   第二次世界大戦後、米軍は東京・代々木に兵舎・家族用居住宿舎等の軍用地を持ち、この土地は 「ワシントンハイツ」 と呼ばれていた。東京オリンピックの主要競技場のすぐ隣に 「
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。