記事へ戻る p_fさん のコメント p_f RT 23 Feb, 2022 なぜ戦争だけが、米国人がこの紛争にもたらすことができる唯一の解決策になりそうなのか https://www.rt.com/news/550337-american-ignorance-russia-policy-putin/ 今日、米国でロシアに関する専門知識とされるものは、党派政治によって腐敗し、事実に基づく分析を歪めている- スコット・リッター記 米国はかつて、ジャック・マトロックのようなソ連・ロシア問題の専門家を輩出していた。今はマイケル・マクフォールのような人がいる。ロシア地域研究に対する大衆の関心の低下と、平均的な米国市民の知的怠慢が原因である。 2月21日、ロシアのプーチン大統領は、現代史に残るであろう最も重要なスピーチを行った。それは、現在の出来事がいかに歴史の力によって形作られるかを、残酷なまでに正直に示したものだった。この演説で重要なのは、その内容よりも、むしろ、それを見た人々がどのように吸収し、解釈したかということである。 私は、ロシア情勢に少なからず通じている米国人として、プーチン演説の歴史的背景を理解できない米国人の姿に打ちのめされている。私は、プーチン大統領の演説を攻撃したり、擁護したりする立場ではない。しかし、この演説が地政学的に大きな意味を持つことを考えると、同胞の人々には、十分な情報を得た上で、知的で合理的な議論をしてほしいと願っている。 しかし、残念ながら、平均的な米国人は、知的訓練も、時間という重要な資源もないため、そのような議論に参加する能力がないのだ。その代わりに、「ロシアの専門家」と呼ばれる公務員にこの任務を委ねている。通常であれば、このようなクラスが存在することに安心感を覚えるかもしれない。結局のところ、米国人は自分たちの経済的な安全を「財務管理者」に喜んで託すのだ。ロシアの歴史、経済、文化、言語に精通した専門家の手に、ロシア問題という複雑なテーマを理解するために必要な知的作業を委ねてもいいではないかと。 ロシアに関する重要な分析と、そこから導き出される意思決定を、所謂「専門家」に委ねるよう米国人に要求されるのは、今回が初めてではない。1945年から1991年まで、米国とソ連は冷戦と呼ばれる大規模な地政学的対立を繰り広げていた。私は、ソビエト連邦が崩壊するまでの最後の数年間を偶然にも目撃しており、それなりに、今週のプーチンの演説に匹敵するようなインパクトのある演説を聞いた。 1988年6月28日のことである、 モスクワから東に700マイル(約1000キロ)、ウラル山脈の麓にあるソ連の都市ボトキンスクに派遣された米国査察団の先遣隊として、2週間目の仕事をした。INF条約が発効して1ヵ月後の1988年7月1日、ポータルモニター業務が開始される予定だった25人の査察団本隊の受け入れ準備を、ソ連の仲間たちと一緒に行うのが私たちの仕事である。この日から、条約で禁止された弾道ミサイルをソ連が製造していないことを確認するため、ボトキンスク市から約12キロメートル離れたボトキンスク・ミサイル最終組立工場の活動を監視するという、条約で定められた任務が始まることになる。 先遣隊は、郊外の森の中にある手入れの行き届いたダーチャで寝泊まりすることになった。ウスチノフ元国防大臣一行がボトキンスクを訪れる際に宿泊するために建てられたダーチャには、充実したキッチン、ビリヤード台、ソ連のテレビを見ることができるラウンジが備わっていた。6月28日の夜、テレビを囲んでいるソ連人の姿に驚いた。その晩、ソ連共産党書記長のゴルバチョフが「第19回全ソ連会議」を開催した。私は、この会議を一見して、共産党の「イエス」の祭典かと思い、全体主義的な指導者に媚びへつらう幹部たちの姿を想像した。ホストの一人である外務省の役人にもそう言った。 「それは事実とまるで懸け離れている」と彼に言われた。「これは革命だ!」 それから3日間、忙しいスケジュールの合間を縫って、私はソ連のホストファミリーと一緒に、目の前で繰り広げられる歴史を見てきた。ゴルバチョフは、ソ連国民に真の改革-ペレストロイカを導入しようとしていた。しかし、そのゴルバチョフに、共産党からは副総裁のリガチョフが、改革派からはエリツィンが挑んできた。会議はイデオロギーの戦場と化し、ソビエト連邦の未来が、歴史上初めてソビエト国民の前で、ライブで決定されようとしていた。 第19回全共闘会議が開催された当時、一般の米国民にその重要性を尋ねても、知的な回答は得られなかっただろう。ソ連が「悪の帝国」に昇格し、米国が全面的な核戦争で対抗する用意があるにもかかわらず、当時の米国民は、現在の国民と同じように、状況を監視して政治指導者や必要に応じて国民に助言する「ソ連専門家」という公務員クラスに、重い考えを任せておけば満足だった。 この「ソ連専門家」クラスを構成していたのは、「ソ連外務官」(FAO)と呼ばれる一群の軍人たちであった。高度な言語訓練と大学院レベルの教育を受け、西ドイツのガルミッシュにある米陸軍ロシア研究所で1年間の研修を受けたソ連FAOは、ソ連の問題について政策決定者に重要な洞察を提供し、必要に応じてINF条約の実施など特定の軍事的任務を遂行することを任務とする専門家であった。 No.7 19ヶ月前 Post このコメントは以下の記事についています 青灯社原稿;考える視点:レーガンのゴルバチョフへの問い「地球が火星人の侵攻を受けたら、... 孫崎享のつぶやき 元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。 » このブロマガへ
p_f RT 23 Feb, 2022 なぜ戦争だけが、米国人がこの紛争にもたらすことができる唯一の解決策になりそうなのか https://www.rt.com/news/550337-american-ignorance-russia-policy-putin/ 今日、米国でロシアに関する専門知識とされるものは、党派政治によって腐敗し、事実に基づく分析を歪めている- スコット・リッター記 米国はかつて、ジャック・マトロックのようなソ連・ロシア問題の専門家を輩出していた。今はマイケル・マクフォールのような人がいる。ロシア地域研究に対する大衆の関心の低下と、平均的な米国市民の知的怠慢が原因である。 2月21日、ロシアのプーチン大統領は、現代史に残るであろう最も重要なスピーチを行った。それは、現在の出来事がいかに歴史の力によって形作られるかを、残酷なまでに正直に示したものだった。この演説で重要なのは、その内容よりも、むしろ、それを見た人々がどのように吸収し、解釈したかということである。 私は、ロシア情勢に少なからず通じている米国人として、プーチン演説の歴史的背景を理解できない米国人の姿に打ちのめされている。私は、プーチン大統領の演説を攻撃したり、擁護したりする立場ではない。しかし、この演説が地政学的に大きな意味を持つことを考えると、同胞の人々には、十分な情報を得た上で、知的で合理的な議論をしてほしいと願っている。 しかし、残念ながら、平均的な米国人は、知的訓練も、時間という重要な資源もないため、そのような議論に参加する能力がないのだ。その代わりに、「ロシアの専門家」と呼ばれる公務員にこの任務を委ねている。通常であれば、このようなクラスが存在することに安心感を覚えるかもしれない。結局のところ、米国人は自分たちの経済的な安全を「財務管理者」に喜んで託すのだ。ロシアの歴史、経済、文化、言語に精通した専門家の手に、ロシア問題という複雑なテーマを理解するために必要な知的作業を委ねてもいいではないかと。 ロシアに関する重要な分析と、そこから導き出される意思決定を、所謂「専門家」に委ねるよう米国人に要求されるのは、今回が初めてではない。1945年から1991年まで、米国とソ連は冷戦と呼ばれる大規模な地政学的対立を繰り広げていた。私は、ソビエト連邦が崩壊するまでの最後の数年間を偶然にも目撃しており、それなりに、今週のプーチンの演説に匹敵するようなインパクトのある演説を聞いた。 1988年6月28日のことである、 モスクワから東に700マイル(約1000キロ)、ウラル山脈の麓にあるソ連の都市ボトキンスクに派遣された米国査察団の先遣隊として、2週間目の仕事をした。INF条約が発効して1ヵ月後の1988年7月1日、ポータルモニター業務が開始される予定だった25人の査察団本隊の受け入れ準備を、ソ連の仲間たちと一緒に行うのが私たちの仕事である。この日から、条約で禁止された弾道ミサイルをソ連が製造していないことを確認するため、ボトキンスク市から約12キロメートル離れたボトキンスク・ミサイル最終組立工場の活動を監視するという、条約で定められた任務が始まることになる。 先遣隊は、郊外の森の中にある手入れの行き届いたダーチャで寝泊まりすることになった。ウスチノフ元国防大臣一行がボトキンスクを訪れる際に宿泊するために建てられたダーチャには、充実したキッチン、ビリヤード台、ソ連のテレビを見ることができるラウンジが備わっていた。6月28日の夜、テレビを囲んでいるソ連人の姿に驚いた。その晩、ソ連共産党書記長のゴルバチョフが「第19回全ソ連会議」を開催した。私は、この会議を一見して、共産党の「イエス」の祭典かと思い、全体主義的な指導者に媚びへつらう幹部たちの姿を想像した。ホストの一人である外務省の役人にもそう言った。 「それは事実とまるで懸け離れている」と彼に言われた。「これは革命だ!」 それから3日間、忙しいスケジュールの合間を縫って、私はソ連のホストファミリーと一緒に、目の前で繰り広げられる歴史を見てきた。ゴルバチョフは、ソ連国民に真の改革-ペレストロイカを導入しようとしていた。しかし、そのゴルバチョフに、共産党からは副総裁のリガチョフが、改革派からはエリツィンが挑んできた。会議はイデオロギーの戦場と化し、ソビエト連邦の未来が、歴史上初めてソビエト国民の前で、ライブで決定されようとしていた。 第19回全共闘会議が開催された当時、一般の米国民にその重要性を尋ねても、知的な回答は得られなかっただろう。ソ連が「悪の帝国」に昇格し、米国が全面的な核戦争で対抗する用意があるにもかかわらず、当時の米国民は、現在の国民と同じように、状況を監視して政治指導者や必要に応じて国民に助言する「ソ連専門家」という公務員クラスに、重い考えを任せておけば満足だった。 この「ソ連専門家」クラスを構成していたのは、「ソ連外務官」(FAO)と呼ばれる一群の軍人たちであった。高度な言語訓練と大学院レベルの教育を受け、西ドイツのガルミッシュにある米陸軍ロシア研究所で1年間の研修を受けたソ連FAOは、ソ連の問題について政策決定者に重要な洞察を提供し、必要に応じてINF条約の実施など特定の軍事的任務を遂行することを任務とする専門家であった。 No.7 19ヶ月前 Post このコメントは以下の記事についています 青灯社原稿;考える視点:レーガンのゴルバチョフへの問い「地球が火星人の侵攻を受けたら、... 孫崎享のつぶやき 元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。 » このブロマガへ
なぜ戦争だけが、米国人がこの紛争にもたらすことができる唯一の解決策になりそうなのか
https://www.rt.com/news/550337-american-ignorance-russia-policy-putin/
今日、米国でロシアに関する専門知識とされるものは、党派政治によって腐敗し、事実に基づく分析を歪めている-
スコット・リッター記
米国はかつて、ジャック・マトロックのようなソ連・ロシア問題の専門家を輩出していた。今はマイケル・マクフォールのような人がいる。ロシア地域研究に対する大衆の関心の低下と、平均的な米国市民の知的怠慢が原因である。
2月21日、ロシアのプーチン大統領は、現代史に残るであろう最も重要なスピーチを行った。それは、現在の出来事がいかに歴史の力によって形作られるかを、残酷なまでに正直に示したものだった。この演説で重要なのは、その内容よりも、むしろ、それを見た人々がどのように吸収し、解釈したかということである。
私は、ロシア情勢に少なからず通じている米国人として、プーチン演説の歴史的背景を理解できない米国人の姿に打ちのめされている。私は、プーチン大統領の演説を攻撃したり、擁護したりする立場ではない。しかし、この演説が地政学的に大きな意味を持つことを考えると、同胞の人々には、十分な情報を得た上で、知的で合理的な議論をしてほしいと願っている。
しかし、残念ながら、平均的な米国人は、知的訓練も、時間という重要な資源もないため、そのような議論に参加する能力がないのだ。その代わりに、「ロシアの専門家」と呼ばれる公務員にこの任務を委ねている。通常であれば、このようなクラスが存在することに安心感を覚えるかもしれない。結局のところ、米国人は自分たちの経済的な安全を「財務管理者」に喜んで託すのだ。ロシアの歴史、経済、文化、言語に精通した専門家の手に、ロシア問題という複雑なテーマを理解するために必要な知的作業を委ねてもいいではないかと。
ロシアに関する重要な分析と、そこから導き出される意思決定を、所謂「専門家」に委ねるよう米国人に要求されるのは、今回が初めてではない。1945年から1991年まで、米国とソ連は冷戦と呼ばれる大規模な地政学的対立を繰り広げていた。私は、ソビエト連邦が崩壊するまでの最後の数年間を偶然にも目撃しており、それなりに、今週のプーチンの演説に匹敵するようなインパクトのある演説を聞いた。
1988年6月28日のことである、 モスクワから東に700マイル(約1000キロ)、ウラル山脈の麓にあるソ連の都市ボトキンスクに派遣された米国査察団の先遣隊として、2週間目の仕事をした。INF条約が発効して1ヵ月後の1988年7月1日、ポータルモニター業務が開始される予定だった25人の査察団本隊の受け入れ準備を、ソ連の仲間たちと一緒に行うのが私たちの仕事である。この日から、条約で禁止された弾道ミサイルをソ連が製造していないことを確認するため、ボトキンスク市から約12キロメートル離れたボトキンスク・ミサイル最終組立工場の活動を監視するという、条約で定められた任務が始まることになる。
先遣隊は、郊外の森の中にある手入れの行き届いたダーチャで寝泊まりすることになった。ウスチノフ元国防大臣一行がボトキンスクを訪れる際に宿泊するために建てられたダーチャには、充実したキッチン、ビリヤード台、ソ連のテレビを見ることができるラウンジが備わっていた。6月28日の夜、テレビを囲んでいるソ連人の姿に驚いた。その晩、ソ連共産党書記長のゴルバチョフが「第19回全ソ連会議」を開催した。私は、この会議を一見して、共産党の「イエス」の祭典かと思い、全体主義的な指導者に媚びへつらう幹部たちの姿を想像した。ホストの一人である外務省の役人にもそう言った。
「それは事実とまるで懸け離れている」と彼に言われた。「これは革命だ!」
それから3日間、忙しいスケジュールの合間を縫って、私はソ連のホストファミリーと一緒に、目の前で繰り広げられる歴史を見てきた。ゴルバチョフは、ソ連国民に真の改革-ペレストロイカを導入しようとしていた。しかし、そのゴルバチョフに、共産党からは副総裁のリガチョフが、改革派からはエリツィンが挑んできた。会議はイデオロギーの戦場と化し、ソビエト連邦の未来が、歴史上初めてソビエト国民の前で、ライブで決定されようとしていた。
第19回全共闘会議が開催された当時、一般の米国民にその重要性を尋ねても、知的な回答は得られなかっただろう。ソ連が「悪の帝国」に昇格し、米国が全面的な核戦争で対抗する用意があるにもかかわらず、当時の米国民は、現在の国民と同じように、状況を監視して政治指導者や必要に応じて国民に助言する「ソ連専門家」という公務員クラスに、重い考えを任せておけば満足だった。
この「ソ連専門家」クラスを構成していたのは、「ソ連外務官」(FAO)と呼ばれる一群の軍人たちであった。高度な言語訓練と大学院レベルの教育を受け、西ドイツのガルミッシュにある米陸軍ロシア研究所で1年間の研修を受けたソ連FAOは、ソ連の問題について政策決定者に重要な洞察を提供し、必要に応じてINF条約の実施など特定の軍事的任務を遂行することを任務とする専門家であった。
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