記事へ戻る sagakaraさん のコメント sagakara 三橋貴明氏が紹介する竹村公太郎氏のメルマガを紹介します。 このメルマガはロバート・ケネディJr.にエールを送るようでもあり、長いので文章を適切でないですが選んでコピペします。 ────────── 『三橋貴明の「新」経世済民新聞』 2023年11月11日 どうする家康! ―江戸に情報が来ないー From 竹村公太郎 @元国土交通省/日本水フォーラム事務局長 ずいぶん以前、 モンゴルの経済協力に 力を注いでいる先輩と 話をしていて印象に残る言葉があった。 モンゴルには 『馬を疾走させ征服するのは簡単だ。 しかし、馬を降りて統治するのは難しい』 という諺があるという。 徳川家康は1600年に 関ケ原の戦いで勝利し、 1615年に大坂夏の陣で 豊臣家を完全に滅ぼした。 徳川家康にとっては、 まさにモンゴルの あの諺が頭の中を占めていたことだろう。 ────────── 家康は大名たちに戦いを禁じた。 海外との交易も禁じた。 つまり大名たちの膨張する欲望を 完全に封じたのであった。 150年間、大名たちは 領地拡大に血を流し戦い続けた。 国内の領地拡大が困難になると 朝鮮半島まで膨張していった。 家康は、その戦国大名たちの 限りない膨張欲望を抑え込む という極めて危険な道を選んだ。 ────────── (図―6)は、二ヶ領用水の全体図である。 取水は上河原堰、宿川原堰から行われ、 上流の稲毛領37村、 下流の川崎領23村で 約32㎞の大規模な 水路網が張り巡らされた。 二ヶ領用水は日本史上で 最初の大規模農地開発となった。 二ヶ領用水で収穫した米は 稲毛米として、 江戸市民に供給されていった。 徳川家康はこの二ヶ領用水を、 参勤交代で江戸に来る 大名たちに見せつけた。 流域の中に封じ込められた大名たちは、 流域の尾根を超えて 領地を広げることを禁じられた。 海を越えて海外に 向かうことも禁じられた。 大名たちはこの二ヶ領用水を 見て目を剥いた。 外に膨張しなくても、 自領内の流域で新田開発は 可能と思われた。 新田開発に関して 江戸幕府の制約は全くなかった。 新田開発が大名たちの旗印となった。 ────────── 大名たちの新田開発 大名たちは、 まず小規模の川で堤防を築造した。 乱流している流れを 堤防の中に押し込めると、 旧河道が豊かな農地になった。 川の水の取り入れと 農業用水路を建設した。 その経験を経て、 大きな川でも堤防を築き、 取水堰と農業用水路を整備していった。 戦いのない平和な江戸時代、 日本中の全ての流域で 農地開発が行われた。 日本列島の米の生産力は 急速に増大していった。 ────────── (図―7)は、 日本の1千年の耕地面積の変遷と 人口増加を示す図である。 戦国時代までは農地の変化はない。 江戸時代に農地開発が一気に行われ、 豊かさが実現し、 それに伴い人口も急激に 増加していることが明瞭に分かる。 江戸時代、 大名たちは流域に封じられた。 流域から外への膨張を禁じられた。 日本人のエネルギーは 流域の農地開発に向かった。 その結果、血を流す 領地の奪い合いの闘争より 遥かに大きい豊かさを実現した。 家康の統治の方針は 後世になって明確になった。 ────────── 家康の荒ぶる戦国大名たちの統治は、 21世紀現在の世界緊張の 解決の方向性を示している。 ・江戸防衛を万全にした ・大名たちを流域に封じて、膨張を禁じた ・流域内の新田開発は自由にして豊かさに向けた ────────── 江戸時代、戦国時代に鉄砲の生産量は世界一だったとの説がありますが、鉄砲生産を鍬やカマに切り替えてインフラ整備と農地開発に力を注ぎ、農業生産力を3倍に引き上げて人口も3倍の3千万に達した模様です。 肥前国佐賀鍋島藩も筑後川の堤防や用水路構築や有明海の干拓に力を注いで江戸時代初めの石高が36万石から100万石に達していたようでもあります。 幕末に鍋島閑叟公率いる佐賀藩はその倍増した力を科学技術振興や人材育成に注いで雄藩の一角に後発ながら入り込んで行けたようです。 大隈重信・江藤新平・副島種臣といった方々が明治政府で活躍されたようです。 長崎県側の諫早藩は肥前国鍋島氏佐賀藩の親類藩で江戸時代初めは5万石だったのが幕末は干拓で石高が増加し、20万石に達していたと記事で読んだ記憶があります。 佐賀藩で科学技術振興を行っていた精錬方には、隣の久留米出身で上方でからくり人形で活躍していたからくり義衛門(田中 久重)を招聘し、日本で初めて蒸気機関車や蒸気船の模型の製作して佐賀藩の科学技術振興に協力したようです。 田中 久重は後に東京銀座で田中製造所を設立し、これが後の東芝に発展していったようです。 No.15 13ヶ月前 Post このコメントは以下の記事についています ロバート・ケネディJr.:もし米国民が私を大統領に選んだら、私は(私の叔父が60年前に提言し... 孫崎享のつぶやき 元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。 » このブロマガへ
sagakara 三橋貴明氏が紹介する竹村公太郎氏のメルマガを紹介します。 このメルマガはロバート・ケネディJr.にエールを送るようでもあり、長いので文章を適切でないですが選んでコピペします。 ────────── 『三橋貴明の「新」経世済民新聞』 2023年11月11日 どうする家康! ―江戸に情報が来ないー From 竹村公太郎 @元国土交通省/日本水フォーラム事務局長 ずいぶん以前、 モンゴルの経済協力に 力を注いでいる先輩と 話をしていて印象に残る言葉があった。 モンゴルには 『馬を疾走させ征服するのは簡単だ。 しかし、馬を降りて統治するのは難しい』 という諺があるという。 徳川家康は1600年に 関ケ原の戦いで勝利し、 1615年に大坂夏の陣で 豊臣家を完全に滅ぼした。 徳川家康にとっては、 まさにモンゴルの あの諺が頭の中を占めていたことだろう。 ────────── 家康は大名たちに戦いを禁じた。 海外との交易も禁じた。 つまり大名たちの膨張する欲望を 完全に封じたのであった。 150年間、大名たちは 領地拡大に血を流し戦い続けた。 国内の領地拡大が困難になると 朝鮮半島まで膨張していった。 家康は、その戦国大名たちの 限りない膨張欲望を抑え込む という極めて危険な道を選んだ。 ────────── (図―6)は、二ヶ領用水の全体図である。 取水は上河原堰、宿川原堰から行われ、 上流の稲毛領37村、 下流の川崎領23村で 約32㎞の大規模な 水路網が張り巡らされた。 二ヶ領用水は日本史上で 最初の大規模農地開発となった。 二ヶ領用水で収穫した米は 稲毛米として、 江戸市民に供給されていった。 徳川家康はこの二ヶ領用水を、 参勤交代で江戸に来る 大名たちに見せつけた。 流域の中に封じ込められた大名たちは、 流域の尾根を超えて 領地を広げることを禁じられた。 海を越えて海外に 向かうことも禁じられた。 大名たちはこの二ヶ領用水を 見て目を剥いた。 外に膨張しなくても、 自領内の流域で新田開発は 可能と思われた。 新田開発に関して 江戸幕府の制約は全くなかった。 新田開発が大名たちの旗印となった。 ────────── 大名たちの新田開発 大名たちは、 まず小規模の川で堤防を築造した。 乱流している流れを 堤防の中に押し込めると、 旧河道が豊かな農地になった。 川の水の取り入れと 農業用水路を建設した。 その経験を経て、 大きな川でも堤防を築き、 取水堰と農業用水路を整備していった。 戦いのない平和な江戸時代、 日本中の全ての流域で 農地開発が行われた。 日本列島の米の生産力は 急速に増大していった。 ────────── (図―7)は、 日本の1千年の耕地面積の変遷と 人口増加を示す図である。 戦国時代までは農地の変化はない。 江戸時代に農地開発が一気に行われ、 豊かさが実現し、 それに伴い人口も急激に 増加していることが明瞭に分かる。 江戸時代、 大名たちは流域に封じられた。 流域から外への膨張を禁じられた。 日本人のエネルギーは 流域の農地開発に向かった。 その結果、血を流す 領地の奪い合いの闘争より 遥かに大きい豊かさを実現した。 家康の統治の方針は 後世になって明確になった。 ────────── 家康の荒ぶる戦国大名たちの統治は、 21世紀現在の世界緊張の 解決の方向性を示している。 ・江戸防衛を万全にした ・大名たちを流域に封じて、膨張を禁じた ・流域内の新田開発は自由にして豊かさに向けた ────────── 江戸時代、戦国時代に鉄砲の生産量は世界一だったとの説がありますが、鉄砲生産を鍬やカマに切り替えてインフラ整備と農地開発に力を注ぎ、農業生産力を3倍に引き上げて人口も3倍の3千万に達した模様です。 肥前国佐賀鍋島藩も筑後川の堤防や用水路構築や有明海の干拓に力を注いで江戸時代初めの石高が36万石から100万石に達していたようでもあります。 幕末に鍋島閑叟公率いる佐賀藩はその倍増した力を科学技術振興や人材育成に注いで雄藩の一角に後発ながら入り込んで行けたようです。 大隈重信・江藤新平・副島種臣といった方々が明治政府で活躍されたようです。 長崎県側の諫早藩は肥前国鍋島氏佐賀藩の親類藩で江戸時代初めは5万石だったのが幕末は干拓で石高が増加し、20万石に達していたと記事で読んだ記憶があります。 佐賀藩で科学技術振興を行っていた精錬方には、隣の久留米出身で上方でからくり人形で活躍していたからくり義衛門(田中 久重)を招聘し、日本で初めて蒸気機関車や蒸気船の模型の製作して佐賀藩の科学技術振興に協力したようです。 田中 久重は後に東京銀座で田中製造所を設立し、これが後の東芝に発展していったようです。 No.15 13ヶ月前 Post このコメントは以下の記事についています ロバート・ケネディJr.:もし米国民が私を大統領に選んだら、私は(私の叔父が60年前に提言し... 孫崎享のつぶやき 元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。 » このブロマガへ
このメルマガはロバート・ケネディJr.にエールを送るようでもあり、長いので文章を適切でないですが選んでコピペします。
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『三橋貴明の「新」経世済民新聞』
2023年11月11日
どうする家康!
―江戸に情報が来ないー
From 竹村公太郎
@元国土交通省/日本水フォーラム事務局長
ずいぶん以前、
モンゴルの経済協力に
力を注いでいる先輩と
話をしていて印象に残る言葉があった。
モンゴルには
『馬を疾走させ征服するのは簡単だ。
しかし、馬を降りて統治するのは難しい』
という諺があるという。
徳川家康は1600年に
関ケ原の戦いで勝利し、
1615年に大坂夏の陣で
豊臣家を完全に滅ぼした。
徳川家康にとっては、
まさにモンゴルの
あの諺が頭の中を占めていたことだろう。
──────────
家康は大名たちに戦いを禁じた。
海外との交易も禁じた。
つまり大名たちの膨張する欲望を
完全に封じたのであった。
150年間、大名たちは
領地拡大に血を流し戦い続けた。
国内の領地拡大が困難になると
朝鮮半島まで膨張していった。
家康は、その戦国大名たちの
限りない膨張欲望を抑え込む
という極めて危険な道を選んだ。
──────────
(図―6)は、二ヶ領用水の全体図である。
取水は上河原堰、宿川原堰から行われ、
上流の稲毛領37村、
下流の川崎領23村で
約32㎞の大規模な
水路網が張り巡らされた。
二ヶ領用水は日本史上で
最初の大規模農地開発となった。
二ヶ領用水で収穫した米は
稲毛米として、
江戸市民に供給されていった。
徳川家康はこの二ヶ領用水を、
参勤交代で江戸に来る
大名たちに見せつけた。
流域の中に封じ込められた大名たちは、
流域の尾根を超えて
領地を広げることを禁じられた。
海を越えて海外に
向かうことも禁じられた。
大名たちはこの二ヶ領用水を
見て目を剥いた。
外に膨張しなくても、
自領内の流域で新田開発は
可能と思われた。
新田開発に関して
江戸幕府の制約は全くなかった。
新田開発が大名たちの旗印となった。
──────────
大名たちの新田開発
大名たちは、
まず小規模の川で堤防を築造した。
乱流している流れを
堤防の中に押し込めると、
旧河道が豊かな農地になった。
川の水の取り入れと
農業用水路を建設した。
その経験を経て、
大きな川でも堤防を築き、
取水堰と農業用水路を整備していった。
戦いのない平和な江戸時代、
日本中の全ての流域で
農地開発が行われた。
日本列島の米の生産力は
急速に増大していった。
──────────
(図―7)は、
日本の1千年の耕地面積の変遷と
人口増加を示す図である。
戦国時代までは農地の変化はない。
江戸時代に農地開発が一気に行われ、
豊かさが実現し、
それに伴い人口も急激に
増加していることが明瞭に分かる。
江戸時代、
大名たちは流域に封じられた。
流域から外への膨張を禁じられた。
日本人のエネルギーは
流域の農地開発に向かった。
その結果、血を流す
領地の奪い合いの闘争より
遥かに大きい豊かさを実現した。
家康の統治の方針は
後世になって明確になった。
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家康の荒ぶる戦国大名たちの統治は、
21世紀現在の世界緊張の
解決の方向性を示している。
・江戸防衛を万全にした
・大名たちを流域に封じて、膨張を禁じた
・流域内の新田開発は自由にして豊かさに向けた
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江戸時代、戦国時代に鉄砲の生産量は世界一だったとの説がありますが、鉄砲生産を鍬やカマに切り替えてインフラ整備と農地開発に力を注ぎ、農業生産力を3倍に引き上げて人口も3倍の3千万に達した模様です。
肥前国佐賀鍋島藩も筑後川の堤防や用水路構築や有明海の干拓に力を注いで江戸時代初めの石高が36万石から100万石に達していたようでもあります。
幕末に鍋島閑叟公率いる佐賀藩はその倍増した力を科学技術振興や人材育成に注いで雄藩の一角に後発ながら入り込んで行けたようです。
大隈重信・江藤新平・副島種臣といった方々が明治政府で活躍されたようです。
長崎県側の諫早藩は肥前国鍋島氏佐賀藩の親類藩で江戸時代初めは5万石だったのが幕末は干拓で石高が増加し、20万石に達していたと記事で読んだ記憶があります。
佐賀藩で科学技術振興を行っていた精錬方には、隣の久留米出身で上方でからくり人形で活躍していたからくり義衛門(田中 久重)を招聘し、日本で初めて蒸気機関車や蒸気船の模型の製作して佐賀藩の科学技術振興に協力したようです。
田中 久重は後に東京銀座で田中製造所を設立し、これが後の東芝に発展していったようです。
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