りゃんさん のコメント
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英国大使館は在京各国大使館の中でももっとも秀でた場所にある。内堀通り、千鳥ヶ淵公園、 半蔵門濠を超えると皇居で、天皇陛下のお住いの吹上御所がある。緊急事態には皇居から半蔵門濠の地価を通って英国大使館に出る逃げ道があるとまことしやかな伝説がある。 この 英国大使館敷地が三分割された。一つは英国大使館、一つはマンション予定地、一つは公園 である。 経緯はやや複雑で明治にまでさかのぼる。幕末英国は莫大な資金を背景に徳川幕府崩壊に関与する。明治政府下、大使館建設を、土地を買っていれば何の問題もなかったが、安い借料で大使館を立てた。 1873 (明治 6 )年、明治政府が貸し付けた約 3 万 5 千平方メートルの国有地に建てられた。戦後も破格の安い賃料であった。しかし1970年代には日本政府は妥当な賃料を要求し始めた。広大な土地なので支払いが難しい。そこで交渉が行われ、日本政府に五分の一の土地を返し、残りを英国の物とする交
なぜなのか、興味が湧く。持ち合わせているシロウト知識で考えてみる。
1、縄文海進、弥生小海退、平安海進があり、縄文弥生のころの関東地方の海岸線は今現在とはかなり違っていたし、その後今までに変化もした。
2、さらに黒潮の流れの変化などの影響もあり、そのあたりの気温気候が衣食住に適していたのかどうか。
3、縄文は採集(海の近くだったとすれば、魚介類が主だっただろう)、弥生であれば稲作もおこなわれていた可能性があり、それによる住居地の差もあるだろう。
4、平安、鎌倉、室町のころの関東がどうだったかの知識は自分にはほとんどないが、家康が江戸の町をつくりはじめる前は、皇居外苑のあたりまで日比谷入江が入り込み、海だったというのは有名な話。さらに、後背地も湿地や原野で、そのあたりにはほとんど人は住んでいなかったといわれるのも有名な話。
こうした事情をもとに細かく考えていけるのではないか。学者の考察が待たれる。
なお、さらに一般論としてふたつ書いておきたい。
1、家康が土地を当時の公共事業によって開発していなければ、江戸という町はありません。当時だって、町の下には縄文・弥生の遺構はあったでしょう。
2、孫崎さんの住居、あるいは誰の住居の下にも縄文・弥生の遺構があるかもしれません。
調和が大事だということでしょうが、開発に異議を唱える側は、1、2、を忘れがちです。
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