りゃんさん のコメント
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私達は誰もが幸せになることを望んでいる。幸せへの道を説く人多くいる。宗教家はその一つだ。米国では心理学の分野で「どうしたら 幸せ になれるか」を学問的に研究している人達人がいる。それらをみてみたい。次は 「幸福の教授」と称される キャサリン・サンダーソン・アマースト大学教授の講演・対話の一部である。 1:切断:特定の話題が不安を引き起こすことがわかっている場合は、その話題を避ける。 2 :参加。私たちのほとんどは、自分がコントロールできない状況では気分が悪くなる。しかし、実際に状況を変えるために今すぐに何かをすることができることがある。 3:与える。我々はしばしば、不特定な親切をする機会がある。ドライブインで次の列に並んでいる人のためにコーヒーを買う、カバンを運ぶ人やベビーカーを押す人のためにドアを開けておく、近所の人のために用事をするなど、これらの小さな計画外の善行が、自分の幸せを増すのであろうか?学術
しかし本人は良い助言とおもっていることが多い。
男女ともに見られる現象だが、どちらかというと男、つまりおじいさんに多い。
参考になる場合がないわけではないが、どっちかというと、迷惑な場合が多い。
あくまで一般例として、「そういうの」の一例を出そう。
いま米国等の大学で紛争が起きている。
昔ならどうだったか知らないが、いまどきの大学生やわかいものは、
よほどのボンクラでない限りは、第一報に接した時点で、具体的情報がなくても、
魑魅魍魎がウラにいると想像する。
純粋な正義感で単なるデモや集会を超えて違法行為に参加した米国学生はいないわけではなかろうが、
そうしたひとびとも、どっちかというとボンクラだろう。
まず「そういうの」がこれがわかってない時点で、わかいものは互いに目くばせをはじめる。
次に、「そういうの」は、うすっぺらい法ではなく、倫理が大事なのだと言い出す。
そこそこ勉強しているわかいものは、誰でも使える、
いわば数学の「定理」みたいになっている基準の背景に、実はいろんな流血事件があり、
さまざまな葛藤を経て「定理」がつくられたのだと知っているから、
法がうすっぺらいなどと聞いた時点で、笑いをかみこらえるのに必死だ。
だいいち、イスラエルもパレスチナもそれぞれの倫理が大事だとおもっているから、
妥協できないのではないか。
最後に「そういうの」は、わかいものを励ます。最高に気分がいい瞬間かもしれない。
しかし、わかいものは、「そういうの」がかつて警官隊と厳しく対峙したことなどない
とわかった時点で、退屈なはなしとしかおもわない。
そしておもう、いや、将来にたいして心配もないうえに、そこそこ健康なのなら、
いま、おまえがやれよと。
まあこんなふうなのだが、「そういうの」が鏡にうつる自分の姿に気づかない限りは、
良い幸福法であり、良い健康法なのかもしれない。健康に生きてくれれば、
わかいものにかかる医療保険料も少なくてすみ、それはそれでOKなのだろう。
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