まえがき

「この国を滅ぼしたくない」――石破茂首相のこの言葉を、あなたはどう受け止めますか。
一見すると国家への責任感に満ちた決意表明のように聞こえる。だが現実に目を向ければ、日本は石破政権の下で連敗を重ね、国民生活は疲弊し、自民党内部ですら「もはや首相の資格はない」と声を荒げる議員が続出している。
それでも石破首相は退かない。むしろ「自分にしかできない改革がある」として、続投への意思を強く固めている。

ここに大きな矛盾がある。
「滅ぼしたくない」と口にするその本人が、結果的に国を滅ぼす方向に歩んでいるのではないか。

いま、自民党内は激しい動揺の渦中にある。臨時総裁選を求める声が広がり、総裁選挙管理委員会がその是非を正式に議論し始めた。だが石破首相は一歩も引かず、支持率の一時的な回復を根拠に居座りを正当化している。
問題は、単なる「一人の政治家の意地」ではない。首相の独善と延命が、日本の政治システムそのものを歪ませ、国民にさらなる負担を強いていることだ。

本稿では、石破首相の続投意思と自民党内の動揺を軸に、彼の言葉と行動の乖離を鋭く検証する。
そして、なぜ高市早苗氏や西田昌司氏の発言にこそ未来へのヒントがあるのかを明らかにしていく。

第一章では、まず石破首相がなぜ「続投」に固執しているのか、その表向きの理由と裏にある計算を明らかにする。ここまでは無料で読める部分としてお届けする。
だが、本当に問題なのはその先だ。
第二章以降では、党内で吹き荒れる「石破降ろし」の真相、森山裕幹事長の動揺、西田昌司氏の徹底批判、そして政権が抱える致命的な構造的欠陥を掘り下げていく。

読むか、読まないか。
ここから先に進むことで見えてくるのは、日本政治の「核心」と「未来」だ。
あなたは果たして、この国の行方を知りたくないだろうか。

第一章 石破首相の続投意思 ― その本音と欺瞞

「滅ぼしたくない」の言葉の裏側


石破首相が周囲に語った「俺はこの国を滅ぼしたくないんでね」という言葉。
だが、現実を直視すれば、このフレーズは滑稽にすら響く。衆院選と参院選での連敗、国民の生活水準低下、外交での譲歩――これらはいずれも石破政権の下で進行している現実だ。

本当に国を守りたいのなら、まずは自らの責任を取るべきではないか。
にもかかわらず彼が選んだのは「辞任」ではなく「延命」。この矛盾こそが、自民党内に強烈な反発を呼んでいる。

ポピュリズム批判という名の自己正当化


石破首相は参政党の「日本人ファースト」や国民民主党の「手取りを増やす」といった政策を「ワンフレーズ・ポリティクス」と切り捨てた。
だが、それは本当に「大衆迎合」なのか。
むしろ国民の切実な声に耳を傾けず、上から目線で「愚かな大衆」を諭そうとする石破氏の姿勢こそが、独善と断じられているのではないか。

「自分にしかできない改革」という幻想


石破首相は農政改革、政治資金制度改革、社会保障と消費税論議――これらを「自分にしかできない」と豪語する。
だが、その「改革」は国民の痛みを増やすだけであり、支持を得るどころか選挙の度に大敗しているのが現実だ。
「唯一の救世主」を演じようとするその姿勢が、むしろ党内外から孤立を招いている。

第一章の終わりに


ここまで見てきたように、石破首相の「続投意思」は美辞麗句に覆われた自己保身にすぎない。
しかし、この矛盾に真正面から切り込み、首相を批判した人物がいる。
それが、自民党の西田昌司参院議員だ。

彼の言葉は鋭く、痛烈であり、まさに石破政権の本質を抉り出している。
第二章では、西田昌司氏の批判を軸に「独善主義」と「石破降ろし」の真相を徹底解剖する。

続きを読みたい方は、ぜひ有料版へ。ここからが核心であり、日本政治の未来を見抜くための必読の内容になる。

第二章 西田昌司氏の批判 ― 独善主義こそ最大の脅威

「ポピュリズムより恐ろしいのは独善主義」


西田昌司参院議員の言葉は、重く冷たい鉛のように響いた。
「ポピュリズムよりも恐ろしいのは独善主義だ。これを続けていることに気付いていないのは恐ろしい。」

この一言は、石破茂首相の存在を根本から切り裂いた。
彼が「俺はこの国を滅ぼしたくない」と口にしたとき、それは決意表明のように見えた。
だが現実に起きたことはどうか。
衆議院選挙の大敗。
参議院選挙の大敗。
失業率の上昇と生活費の圧迫。
国民の声が届かない政治。

石破首相が掲げる理想は、結局のところ「独りよがり」に過ぎなかった。
「大衆迎合を拒む」という建前は、実際には「民意を無視する」ための言い訳だったのではないか。
西田氏の批判は、この欺瞞を突き破るものだった。

首相は「都合のいいアジテーションでこの国はよくなるのか」と言った。
だが国民からすれば、それは「都合の悪い現実から耳を塞いでいる」としか映らない。
本当に恐ろしいのは、民意に耳を傾けぬ独善の政治家だ。
それが国を滅ぼすのだ。

二度の国政選挙大敗 ― 首相の資格はあるのか


衆院選、参院選――二度の国政選挙で大敗した首相が、なぜ椅子に座り続けられるのか。
選挙とは、国民が政権に下す「通信簿」のようなものだ。
二度連続の赤点を取った首相に、次の学期を任せる教師や保護者はいない。
それでも石破首相は続投に固執した。

西田昌司氏ははっきりと言った。
「石破さんに首相の資格がないということを認識してもらわないと困る。」

その言葉の背景には、単なる感情論ではなく、数字が突きつける冷酷な現実がある。
与党が過半数を割り込み、野党連合が政権を狙う隙を見せたのは誰の責任か。
「国民が求めた政治」と「石破首相がやりたい政治」の間には深い断層が広がっていた。
国民は「生活を守れ」と訴えた。
だが首相は「農政改革だ」「政治資金改革だ」と、自らの理想を優先した。
そのズレが連敗を招いた。

選挙に負けても退かない政治家。
これは民主主義のルール違反に近い。
「資格がない」という西田氏の言葉は、国民の声を代弁するものだった。

政治資金不記載問題と判断ミスの連鎖


西田昌司氏の批判の核心は「政治資金不記載」だけではない。
もっと深い部分にある。
それは、石破首相の「政治判断そのもの」に対するノーだ。

首相は、不記載議員を「非公認」と切り捨てた。
だが、選挙の途中でその人物に2,000万円を振り込んだ。
こんな矛盾は聞いたことがない。
「処分した」と言いながら、「支援もする」。
国民から見れば茶番に映り、党内からすれば「信頼を壊す行為」にしかならなかった。

西田氏は冷徹に指摘した。
「石破さんの政治判断そのものに対するノーだ。」

つまり、問題は不祥事そのものではない。
それにどう向き合い、どう判断したかだ。
責任を取らせる場を設けず、説明も求めず、いきなり解散を打ち出した。
その場しのぎの政治判断が、結果的に党全体を泥沼に沈めたのだ。

独善的な判断は、党内の規律を破壊した。
「俺にしかできない」という首相の思い込みは、やがて「誰の信頼も得られない」孤立へと変わっていった。

潔さを失った首相の末路


西田昌司氏は、最後に首相へ一つの助言を投げかけた。
「総裁選で負けるより、自ら退任する方が潔い。」

潔さ――それは日本人が政治家に求める最後の美徳だ。
勝っても負けても、潔く身を引く者は人々の記憶に残る。
だが、石破首相は潔さを捨てた。
「まだやれる」「自分しかいない」と言い張り、椅子にしがみついた。
その姿は、もはや「国を守る首相」ではなく、「権力を守る政治家」だった。

国民はその姿を見透かしている。
支持率の一時的な回復はあっても、根本的な信頼は戻らない。
「石破政権は終わった」と人々が口にするのは、すでに現実だからだ。

潔さを失ったリーダーの末路は、惨めな退場にしかならない。
西田氏はそう警告していた。

第二章の終わりに


ここまで見てきたように、西田昌司氏の批判は石破首相の「独善」を鋭く突き刺している。
二度の国政選挙の敗北。
政治資金問題の矛盾。
そして潔さを失った姿。
これらはすべて、首相としての資格を失った証拠だ。

だが物語はこれで終わらない。
真に恐ろしいのは、首相を支えてきた側近たちの心が離れつつあることだ。
その象徴が、森山裕幹事長の動揺である。

第三章では、石破政権を内側から崩壊させる「幹事長の離反」と「石破降ろしドミノ」の真相に迫っていく。

第三章 森山裕幹事長の離反と「石破降ろし」加速

盟友の動揺 ― 幹事長辞任の示唆


森山裕幹事長。
自民党政権を裏から支える「実務派」であり、石破首相の最大の支柱だった。
その森山氏が、ついに「辞任の可能性」に言及した。

幹事長とは、単なる事務方の責任者ではない。
党内の金の流れを握り、候補者の公認や選挙の采配を仕切る存在だ。
幹事長が首相に背を向けるということは、実質的に政権の崩壊を意味する。

森山氏はこれまで、石破首相の強引な判断を「現実的な調整」で支えてきた。
ときに無理のある政策を修正し、ときに党内反発をなだめ、ときにメディアに苦しい説明を続けた。
だが参院選の大敗で、その限界は完全に露わになった。

「一蓮托生だと思っていた。」
首相の独善に振り回され続けた森山氏の胸中は、すでに疲弊しきっていた。
その表情には「もう限界だ」という文字が刻まれていた。

幹事長辞任の示唆。
これは石破政権の「最後の砦」が崩れかけていることを意味する。

「石破降ろし」ドミノの始まり


森山幹事長の動揺は、党内に電流のように走った。
幹事長が辞めれば、政権の屋台骨は一気に傾く。
議員たちは敏感だ。
「沈みゆく船」に乗り続けるか、それとも逃げ出すか――その選択が迫られる。

両院議員総会では、すでに「石破降ろし」が合言葉のように飛び交っていた。
「退陣すべきだ」
「臨時総裁選で新しい顔を立てるべきだ」
拍手は弱々しく、ざわめきは強くなっていた。

政治の世界で恐ろしいのは、「勢いの変化」だ。
数日前まで首相に忠誠を誓っていた議員が、ある日突然「石破では選挙を戦えない」と言い出す。
その連鎖反応は止められない。
一人が離反すれば、二人目も、三人目も、同じ言葉を口にする。

森山氏の動揺は、まさにそのドミノの第一枚だった。
石破首相の「外堀」は埋まりつつある。
だが、その内堀を決定的に崩すのは、他でもない盟友の裏切りだ。

世論と党内温度差


石破首相の拠り所は、わずかな支持率の回復だった。
「NHKの世論調査で支持率が上がった」と、首相は周囲に自信を見せた。
だがそれは錯覚にすぎなかった。

支持率とは、あくまで「一時の気分」にすぎない。
選挙で示されるのは「民意」だ。
そしてその民意は、すでに二度の大敗という形で首相に「ノー」を突きつけていた。

党内の空気は、冷え切っていた。
「もう遅い」
「今さら改革と言っても信用できない」
「首相が居座れば、自民党全体が沈む」

森山氏がその空気を最も強く感じていた。
党内の声を日々耳にするのは幹事長だ。
だからこそ、彼の辞任示唆は「党内多数派の代弁」として重く響いたのだ。

首相は「自分にしかできない改革がある」と言った。
だがその言葉を、今の自民党で信じる者はどれだけ残っているのか。

崩壊の予兆 ― 支柱なき政権の末路


政権とは、首相一人で動くものではない。
首相が理想を語り、幹事長が実務を仕切り、派閥が選挙を回す。
そのバランスが崩れれば、どんな強い首相でも立ち行かなくなる。

森山幹事長の離反は、そのバランスを根底から崩壊させる。
首相の「独善」は、もはや誰も支えきれない。
幹事長が降りれば、残るのは孤立した首相だけだ。

「権力にしがみつく孤独なリーダー」
それが、今の石破茂の姿だ。

やがて党内の反乱は「手続き」という形で表面化する。
臨時総裁選挙の是非。
議員たちの署名集め。
そして公開か非公開かをめぐる投票方法の攻防。

全ては「石破首相を降ろす」ための舞台装置となる。

第三章の終わりに


森山裕幹事長という「最後の支柱」の動揺は、石破政権の命運を決定づけた。
幹事長の離反は、単なる人事ではない。
それは政権の終焉を告げる鐘の音だった。

次に待ち受けるのは、自民党史上かつてない「臨時総裁選」である。
そこでは党則の網が張り巡らされ、石破首相は逃げ場を失う。

第四章では、その臨時総裁選のシナリオと、前例なき「権力交代の手続き」を徹底的に解剖する。

第四章 臨時総裁選シナリオ ― 自民党の分岐点

前例なき手続き


「臨時総裁選挙」。
その言葉には、自民党にとって特別な重みがある。
なぜなら、これまで党の歴史の中で「総裁の自発的な辞任以外」による臨時総裁選が行われたことは一度もないからだ。

つまり、この議論が現実味を帯びた瞬間から、自民党は「未知の領域」に踏み込むことになる。
そして、それを決定するのは総裁選挙管理委員会。
党内規則に基づき、所属国会議員295人と都道府県連代表47人の過半数――172人の要求が必要とされる。

この数字は、単なる算術の結果ではない。
「石破降ろし」の力がどこまで広がったかを可視化する、冷徹なメルクマールだ。

もしこの数字を超える署名が集まれば、それは首相にとって「信任の崩壊」を意味する。
どんな言葉を弄しても、数字は嘘をつかない。
そして、その数字が揃いつつある現実こそが、石破政権の末期を告げている。

記名投票か非公開か


総裁選挙管理委員会で今、最大の争点となっているのは「意思確認を記名で行うのか、それとも無記名で行うのか」という点だ。

記名であれば、誰が「石破支持」か「反石破」かが白日の下に晒される。
石破派の議員たちは、その瞬間から孤立するだろう。
派閥の論理が剥がれ落ち、議員一人ひとりの名前が「政権を支えるか、潰すか」を決める証文となる。

一方で、無記名投票であれば、議員たちは自由に投票できる。
「石破降ろし」に加担しても、表向きは忠誠を誓い続けられる。
この場合、雪崩のように反対票が集まる可能性が高い。

首相サイドは必死に「記名投票」を求める。
議員たちを縛り付ける鎖を残したいからだ。
だが党内の多くは「無記名こそ公正」だと主張する。
つまり、投票方法そのものが、すでに「石破降ろし」の成否を決める戦場になっているのだ。

石破派の“背水戦術”


石破首相は、ここにきてもなお「続投」を掲げる。
その根拠は、世論調査の一時的な支持率上昇だ。
「国民はまだ私を必要としている」と、首相は言い張る。

だが、その言葉を信じる議員はほとんどいない。
「選挙で負けた」という事実の前では、支持率の数字は何の意味も持たない。
選挙とは「生の民意」であり、支持率は「一時の気分」に過ぎないからだ。

石破派の議員たちは「背水戦術」に出ている。
「首相を守り抜けば、いずれ恩恵が返ってくる」と信じたい。
だが現実には、彼ら自身が次の選挙で落選するリスクを抱えている。
政治家にとって最大の恐怖は「地元で負けること」だ。
石破首相を支え続ければ、自らの選挙区で有権者から見放される。
そのジレンマに耐えきれる議員は多くない。

つまり「石破を支える=自分が沈む」という構図が、すでに出来上がっている。
首相がいくら「俺しかできない」と言っても、議員たちの心は逃げていく。

自民党の分岐点


では、臨時総裁選が行われた場合、自民党はどうなるのか。
これは単なる「首相の交代劇」ではない。
党の命運を左右する分岐点になる。

一つの道は、石破首相が続投に固執し、総裁選で敗北するシナリオだ。
その場合、石破氏は「惨めな退場」を余儀なくされる。
党内の分裂は一気に顕在化し、自民党は長期にわたり傷を負うことになるだろう。

もう一つの道は、石破首相が「潔く退任」し、総裁選に出馬しない選択をするシナリオだ。
その場合、党は混乱を最小限に抑え、新たなリーダーを立てることで「再生の物語」を描ける。
西田昌司氏が指摘したように、「潔さ」は日本人にとって最大の美徳であり、それを示すことで自民党は再び国民の信頼を取り戻す可能性がある。

だが、現実の石破首相にはその「潔さ」が見えない。
「退けば負けだ」と思い込む首相は、自らを追い詰め、結果として党を道連れにする。

臨時総裁選は、自民党の未来を決める「最後の審判」になる。
石破が勝つか負けるかではなく、自民党が「生き残るか滅びるか」を決める分岐点なのだ。

党内外の視線 ― 国民は見ている


忘れてはならないのは、これは単なる党内の権力闘争ではないということだ。
国民はすべてを見ている。
「国を滅ぼしたくない」と言った首相が、実際には自らの延命に執着している姿。
「開かれた自民党」を掲げながら、党内の声を無視する独善的な振る舞い。

これらはすべて有権者の目に焼き付いている。
もし自民党が「石破続投」を容認すれば、その瞬間から党全体が「国民の意思を無視する組織」として断罪されるだろう。
逆に「石破降ろし」に舵を切れば、党は痛みを伴いながらも再生の道を歩むことができる。

国民の視線は鋭い。
そして次の選挙こそが、その審判の場となる。

第四章の終わりに


ここまでで見えてきたのは、臨時総裁選という「前例なき手続き」が、石破政権の延命か崩壊かを決定するという冷酷な現実だ。
記名か無記名か。
172人の署名は集まるのか。
そして、石破首相は最後まで「潔さ」を示せるのか。

だが、ここで終わりではない。
本当に重要なのは、石破政権の崩壊後に「誰が」日本を導くのかという問いだ。
次なるリーダー像を描けなければ、党は瓦解するだけに終わる。

第五章では、「石破後」の自民党再生に向けて、高市早苗氏と西田昌司氏という二人の軸を中心に、日本政治の未来を展望していく。

第五章 石破政権崩壊後の自民党再生と保守の未来

崩壊の先に残る問い

石破政権が崩れるのは、もはや時間の問題だ。
森山幹事長の離反。
西田昌司氏の痛烈な批判。
そして、党内で広がる「石破降ろし」の声。

外堀も内堀も埋められ、首相は孤立している。
だが、問題は「石破が退陣するかどうか」ではない。
もっと重要なのは、その後を誰が担い、この国をどこに導くのかということだ。

崩壊は終わりではない。
崩壊は始まりなのだ。
自民党は「石破後」の姿を国民に示さなければならない。
示せなければ、党そのものが沈む。

では、誰がこの国を再生できるのか。

高市早苗 ― 国家観を持つ数少ないリーダー


高市早苗氏の名前がここで浮かび上がる。
彼女は単なる政治家ではない。
国家観を鮮明に持ち、逆風の中でも信念を曲げない数少ないリーダーだ。

「この国を守る」。
高市氏の言葉には、単なるスローガンではなく「覚悟」がある。
外交での毅然とした態度。
安全保障に対する揺るぎない姿勢。
そして、伝統を守りながらも未来を切り開こうとする意志。

石破首相の「俺にしかできない」という独善的な言葉とは対照的だ。
高市氏の言葉は、国民の目線に立ち、国の尊厳を守るための「共鳴」を生み出す。

日本政治に必要なのは、この「共鳴」だ。
国民と共に歩むリーダー。
国民を見下ろすのではなく、共に戦うリーダー。

高市早苗氏は、その資質を備えている。

西田昌司 ― 数字と事実で戦う論客


もう一人、忘れてはならない人物がいる。
西田昌司参院議員だ。

西田氏は、派閥の論理に流されない。
空気を読んで発言を変えることもない。
彼の武器は「数字」と「事実」だ。

消費税廃止を訴えるその論理は、感情論ではない。
歳入と歳出のバランスを見抜き、国民生活を守るための財政政策を徹底的に追及する。
財務省が隠してきた不都合な真実に切り込み、タブーに挑戦する。

石破首相が「改革」と称して国民に負担を押し付けたのとは正反対だ。
西田氏は「国民を守るための改革」を真正面から語る。
そこには独善はなく、国民と共に戦う政治家の姿がある。

高市早苗氏が「国家観」を示すリーダーならば、
西田昌司氏は「政策の柱」を築く理論家だ。
この二人の存在こそが、自民党再生のカギを握っている。

国民が求める政治とは何か


国民は何を望んでいるのか。
それは単純だ。
「安心して暮らせる国」である。

だが現実はどうか。
物価高、税負担、外交の不安。
石破政権はこれらに答えられず、むしろ国民を疲弊させてきた。

国民が欲しているのは、派閥の論理や自己満足の「改革」ではない。
生活を守る政策だ。
誇りを持てる外交だ。
安心して次世代を育てられる社会だ。

高市氏や西田氏の言葉が支持を集めるのは、そこに「生活」と「国家」という二つの軸が明確にあるからだ。
一方の石破氏には、それがない。
あるのは「俺がやらなければならない」という独善だけだ。

国民は、独善ではなく「共鳴」を求めている。

石破後の自民党 ― 再生か、消滅か


自民党が「石破後」をどう描くか。
これは単なる政局の問題ではない。
自民党が再生するか、消滅するかの分岐点だ。

再生の道は一つしかない。
「国家観」と「政策軸」を両輪に据え、国民に誠実に向き合うことだ。
高市早苗氏のリーダーシップと、西田昌司氏の政策的骨格。
この二つを軸に据えた時、自民党は再び「骨太の政治」を取り戻せる。

逆に、もし「石破的な独善」を引きずり続ければどうなるか。
国民は完全に自民党を見限るだろう。
参政党や他の保守勢力に票が流れ、党は空洞化していく。
「かつての自民党」という言葉が歴史書に刻まれるだけだ。

自民党は今、その岐路に立っている。

「私たち国民」の役割


だが、この再生は政治家だけに委ねられるものではない。
最後に問われているのは「私たち国民」の意思だ。

石破首相が「この国を滅ぼしたくない」と言った。
だが実際にこの国を守るかどうかを決めるのは、私たちの一票である。
選挙で何を選ぶか。
どの声を支持するか。
その積み重ねこそが、この国の未来を決める。

高市早苗氏や西田昌司氏のような政治家を支えるのか。
それとも、独善にしがみつく政治家を許すのか。
国民の選択が、日本の未来を分ける。

政治は政治家だけのものではない。
政治は私たちの手の中にある。

第五章の終わりに


ここまで見てきたように、石破政権の崩壊後に残された道は二つしかない。
独善を引きずり、党が沈むか。
それとも、国家観と政策軸を両輪に据え、党が再生するか。

その中心に立つべき人物は、高市早苗と西田昌司だ。
一人は「国を守る覚悟」を示すリーダー。
もう一人は「数字と事実」で戦う理論家。

この二人が軸となる時、日本政治は再び「骨太の政治」を取り戻せる。

だが、その未来を選ぶのは、最終的には私たち国民だ。
「この国を滅ぼしたくない」と言うなら、
私たちは「どんな政治を選ぶのか」を真剣に考えなければならない。

――そして、その答えは次の選挙で下される。

あとがき ― 独善を超えて、未来を選ぶのは誰か


石破茂首相は、「この国を滅ぼしたくない」と語った。
だが現実はどうだったか。
衆院選の大敗。
参院選の大敗。
国民生活の疲弊。
そして党内の動揺。

言葉と現実の乖離。
その落差こそが、石破政権の本質だった。
彼の言葉はいつも正義をまとっていた。
しかし、その実行は国を守るどころか、国を揺るがし、国民を追い詰めてきた。

西田昌司氏は「独善主義の恐ろしさ」を突きつけた。
森山幹事長は「もう支えきれない」という心の叫びを示した。
党内は臨時総裁選に踏み出し、歴史にない手続きに進もうとしている。
つまり、自民党自身が「石破ではこの国を導けない」と結論を出し始めたのだ。

石破政治の終焉とその教訓


石破政権の崩壊は、単なる一人の政治家の失敗ではない。
もっと深い意味がある。
それは「独善がいかに危ういか」を私たちに教えている。

政治家が「自分にしかできない」と言った瞬間から、政治は腐り始める。
政治は、国民のためにある。
「私」がやりたいからやるのではなく、「国民」が望むから動かすのだ。

石破首相はその逆を行った。
「俺はこの国を滅ぼしたくない」と言った。
だが、その言葉は「俺がやらなければ国は滅ぶ」という独善的な裏返しでもあった。
結果として、国は滅びかけ、自民党も沈みかけている。

この教訓を、私たちは忘れてはならない。

自民党再生への道筋


では、この国の政治をどう立て直すのか。
答えはすでに浮かび上がっている。

高市早苗氏。
彼女は国家観を鮮明に示し、「国を守る覚悟」を言葉ではなく行動で示してきた。
信念を曲げず、国民と共に戦う姿は、国が求めるリーダーの姿だ。

西田昌司氏。
彼は数字と事実を武器に、消費税廃止や財政改革を真正面から語る。
誰も踏み込めない領域に踏み込み、国民の生活を守ろうとする。
派閥の論理ではなく、真実を土台にした政治家だ。

この二人の存在は、「石破後」の自民党再生に不可欠だ。
国家観と政策軸。
精神と構造。
両輪が揃ったとき、自民党は再び「骨太の政治」を取り戻せる。

国民に突きつけられた問い


だが、最終的に決めるのは政治家ではない。
私たち国民だ。

独善的なリーダーを許すのか。
それとも、国民と共に歩む政治を選ぶのか。
選挙は遠い話ではない。
一票を投じるその瞬間に、私たち一人ひとりが「未来を選んでいる」のだ。

国民が声を上げなければ、政治は変わらない。
無関心でいれば、独善は続き、国は本当に滅びかねない。
だが、私たちが意思を示せば、政治は必ず変わる。
その責任と力を、私たちは持っている。

読者への呼びかけ


あなたは、どうするのか。

石破首相の言葉に騙され続けるのか。
「俺はこの国を滅ぼしたくない」と言いながら、実際には国を滅ぼしかけている現実を見過ごすのか。

それとも、高市早苗氏や西田昌司氏のように、国民のために戦おうとする政治家を支えるのか。
未来を守るために、あなたの一票を武器にするのか。

政治は、遠い世界の出来事ではない。
あなたの生活を決めるのは、政治だ。
そして、その政治を決めるのは、あなた自身だ。

「国を滅ぼしたくない」と言うなら、
「どんな政治を選ぶのか」を自らの手で決めなければならない。

結び


石破政権は、独善の果てに崩壊する。
だが、その崩壊は終わりではなく、始まりだ。

新しい自民党をつくるのか。
新しい保守の形を描くのか。
それとも、日本政治そのものを沈ませるのか。

答えは、私たち国民の手の中にある。

この国を滅ぼすのか。
それとも、未来へつなぐのか。

――その選択は、あなたに委ねられている。



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※高倉 龍之介(政治フリージャーナリスト・映像クリエイター)