1978年夏の池田高校には、いくつかの特別が折り重なった。
一つは、監督である蔦文也の指導力が円熟の境地に達しつつあったこと。彼は、部員たちを追い詰めるバランスというのを見極められるようになっていた。かつてのように追い詰め過ぎない。潰れる寸前でリリースする。
そのためこの夏の地獄の猛特訓では、18人いた全ての部員たちが逃げるに逃げられなかった。もうダメかと思う寸前に、文也が手綱を緩めるからだ。
しかしおかげで、各々が各々の限界ギリギリまで鍛え上げられることとなった。そうして、かつてないほど仕上がったチームができ上がった。
また、この夏は高校野球全体にとっても特別な年になった。それは、二つの意味で特別だった。
一つは、甲子園への出場枠が増えたこと。当時、甲子園の出場校は各県一つずつではなかった。例えば四国は北四国と南四国の二校だけだった。だから徳島県と高知県の高校は、それぞれの県で勝