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 どーしてみいちゃん、なーぜだかみいちゃん、へんだーなーへんだーなーみ~~ちゃ~~ん♪

 ――というわけで先週動画として投下した、『みい山』レビューの取りこぼしネタでございます。
 動画の方は本日、サブチャンネルにも投下しているので、未見の方はまずそちらをご覧ください。

https://youtu.be/iqv-6iTS5ho

 あ、ちなみに冒頭に書いたのは『エッちゃん』OPの替え歌です。
 動画でも述べたように、『エッちゃん』や『チックル』といった魔女っ子アニメでは魔女っ子と普通の少女のペアが描かれることがあり、前者が人間のイド(欲望)を、後者が超自我(理性)を象徴し、後者が前者の欲望をセーブする構造になっている。『ハピネスチャージプリキュア』もこのパターンですね。
 ところが近年の女性向け漫画では欲望をこそ肯定する傾向がある。『みい山』もそのパターンであり、これは当然、子供向けと大人向けの違いでもあるのですが、昭和の魔女っ子アニメは「おっちゃんが、ちびっ子に向けて作ってあげる」ものであるがため、そうした「しつけ」的要素を持っていたとも言えるわけです。
 ちなみに『サリー』や『チャッピー』など、魔女っ子には弟がいて、この弟こそがイドの役割を担うというのもまた、ひとつの定番ではありました。「一姫二太郎」の言葉通り、「お姉さん」がやんちゃな弟の面倒を見るという図式が、ここでは上の図式の代替表現になっているわけです。
『マコちゃん』、『メグちゃん』はヒロインも等身高く描かれた、少々上の世代の視聴者を狙った(言わば萌え)作品であり、こうなると弟キャラもヒロインたちにセクハラを働くようになります。つまり彼らはイドであると同時に、ある種、少女たちのナルシシズムを、さらに言えば「負の性欲」をも満足させる存在でもありました。
『メグちゃん』にはセクハラ要員として魔界の監視員である中年男も配され、要はヒロインの本命にはなり得ない、「弱者男性」として彼らは存在していたわけです。
 実は『セーラームーン』のうさぎちゃんにも、やんちゃな弟・進悟がいました。これは恐らくですが、(原作者様ではなく)アニメを作っていたおっちゃんが「何とはなしに、お約束なので」配した設定であったことでしょう。そもそも『セラムン』において、うさぎちゃんの家族の出番は大変に少ないのですが、この弟君もほぼ、活躍の場面はゼロです。
 そう、『セラムン』こそ日本のコンテンツが「女の子の欲望をただ、解放することを肯定するモノ」になった先駆けと言え、進悟君はその意味で「しつけ」を担ってきたおっちゃんの最後のあがきだったと言えるわけです。
 ちょっと余談ですが、この『セラムン』のちびうさ、『チックル』のヒナ、『どれみ』のぽっぷとこの種のアニメでは妹が「仲間外れ」要員として登場することも多々あり、これら妹たちがお姉さんたちから蚊帳の外に置かれる描写は定番なのですが、正直、見ていて気分のいいものではありません。女の子にとって重要な、「ちょっと大人」、「仲間たちだけのヒミツ」という気分を演出するために必要なアイテムとして、こうした妹たちはダシにされていたわけですね。
 こうして見るとやっぱりたまには『プリキュア』もおっちゃんが脚本を書いて、弟を配した方がいいんではないかな……と思わなくもないこともないこともないこともないこともありません。
『みい山』に戻ると、もちろん奔放なみいちゃんによって、常識人で抑圧的な山田さんが少しずつ自分を解放していくというテーマそのものは否定されるべきモノではありませんが、ただ、女性向けメディアが欲望をこそ肯定し、「理性」とか「社会規範」をただ悪としてしか描かなくなったことは事実で、それは必ずしも好ましいばかりではないと思うわけです。

 さて、ここでもう一つ、動画に書ききれなかったことをまとめておきましょう。
 動画でも小山晃弘氏の『みい山』評について引用しましたが、ちょっと言えなかったことがあります。
 同氏の記事は、尚矢さんという知的障碍者支援に携わっている(つまりプロの)人物との対談で進められ、もちろんその知見は確かなモノなのでしょうが、ただ……尚矢先生には知的障害者の性犯罪への忖度があるんでは……と思われるのです。本作での知的障害者の描かれ方について(みいちゃんの父母が兄妹であったという設定やツバサの行動が非現実的だとして)、先生は以下のように言います。

そもそもみなさんが「知的障碍」といって連想するような中度以上の知的障害って、性的な関心自体を持ってないことも多いんですよ。

そもそもですね、強姦って知的能力がある程度高くないとできない行為なんですよ。

 しかし、そこは(ぼくには知識がありませんが、それでも)ちょっとどうかなあとしか言いようがありません。
 性的な関心を持つ知的障害者もいる(と、先生の話からは判断せざるを得ない)わけだし、レイプだって田舎など、人気のない場所でなら知的能力が高くない人物でも、犯行を犯す(犯せる)可能性は充分にあるんじゃないでしょうか。
 ツバサについても、みいちゃんに電車のオモチャを触られ、みいちゃんを罵倒し、殴りつけるシーンにリアリティがない、それは言語能力が高くて不自然だ、ということなのですが、別にツバサが明らかに知的障害だと言明されているわけではないし、ここの流れはぶっちゃけ枝葉末節に文句をつけ、そして最後に「障害者の性犯罪はない」といった「イメージ」へと持って行こうとしているとしか、ぼくには見えないんですね。
 障害者差別をなくしたいとの真っ当で正義感に立脚した動機からだと思いますが、リクツの進め方がちょっと、アンフェアであるように思えるのです。
 これは以前、「フェミニストがバリアフリーマンションに文句をつけ、障害者差別をしている」といった話題が騒がれたことを思い起こさせます。

 その時にも書いたように、精神・知的障害者の性犯罪は多いとしか言いようがないんですね。大雑把に言えば健常者の倍でしょうか。

 もっともこの表では精神障害と知的障害がごっちゃになっていますが、法務省が2014年に行った「知的障害受刑者調査」を見ると、やはり一般層と比較して知的障害受刑者の窃盗、強制わいせつ・同致死傷、強姦・同致死傷の割合がは高いとされています。いえ、これは「受刑者の中の比率」であり、健常者は他の犯罪の比率が高まるから、相対的に障害者の性犯罪の比率が上がるということは言えましょう。でも、ここでは知的障害者の犯罪のうち、4.2%が強制わいせつとされるんですね。尚矢先生の発言から導き出されるイメージとこのデータとには齟齬があるわけです。

 こうなると女性の男性障害者への忌避感、それ自体を全くまかりならんとしてしまうことも、ちょっとおかしいとぼくには思われるのです。

 尚矢先生が障害者差別に憤るのであれば、みいちゃんが果たして何故、風俗でメチャクチャな扱いを受けていて平気なのかについて、語って欲しいと思いました。一応、マオのためにやっていたんでしょうが(そのわりにそもそもマオが消えてものほほんとしているわけですが)、そうしたえげつない性的搾取に対するみいちゃんの「無反応さ」は正しいものなのか。
 というのは動画でも縷々述べたように、本作を「負の性欲コンテンツ」として捉えた時、実のところその「無反応さ」は非常に意味を持ってくるからなのです。
 みいちゃんは、言うまでもなく「性行為に一切の責を負わず、ただただ男から求められる快を得たい」女性にとっての、スーパーヒロインだから、なのです。知的障害は理由づけでしかなく、「カワイソーなので一切責を問われない」という形でただ、彼女らはセックスの快を与えられる存在なのですから。
 その意味で、徹底して本作の男性が(とってつけたイイモンを除き)醜悪奇怪なのは象徴的で、それは性のネガティビティを「ワルモンとしての男」に引き受けて欲しいから、なのです。
 だから、「負の性欲コンテンツ」である本作が、ある種、障害者を(それはみいちゃんも、ツバサも)女性のマスターベーションツールにしているというのは、否定しにくい。「障害者のリアルを描いた社会派作品」ではなく、ある種の悪趣味な作品であることは否定できない。
 でもそれはホモが腐女子のマスターベーションツールにされてるのといっしょで、「望ましい描き方以外は許さぬ」などと言ってもしょうがないのです。
 本作は「負の性欲コンテンツ」として、男の描かれ方が非道いとは思います。しかし、逆に言うとツバサもシゲオもマオもそして店長連中も全て同列の悪として描かれたある種の平等を保った作品であるとも言えなくはない。
 本作を否定するとしても、「障害者差別漫画」であるというのはちょっと違うのじゃないかなあ、それは「弱者男性差別漫画」であるとこそされるべきなのではないかなあ、と思われるのです。
 否、仮にツバサの描写を障害者差別とするならみいちゃんの描写もそうであって、さらにシゲオ(オタク)もツバサと同列にされていることを鑑みるならば、本作は「男も女も、自らの下の者をマスターベーションツールにするお姉さんたち」のための漫画であり、言うなら「弟妹差別漫画」として批判されるべき、なのです。