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 フェミニズム=トンデモという図式を示す記事の再録を続けています。
 今回再録したものは2013年9月7日に書かれたもの。
 今となっては少々わかりにくい「表現の自由クラスタ」批判、「男性差別クラスタ」批判はちょっと削っておきました。
 ともあれ、今回はフェミニズムやLGBT思想とオカルトとの親和性というのがポイントです。
 では、そゆことで……。

     *     *     *

 少し前、蔦森樹師匠がホメオパシーの人になっていた件が、ごく一部の人々に反響を巻き起こしました。
 喩えるのならば下町の定食屋のテーブルに置かれたお冷やのコップの中で発生した嵐、とでもいった規模でしょうか。

 ――おい待て兵頭、そもそもホメオパシーって何だ?

 はいはい、ごく簡単に申し上げますと、要するに「科学的根拠のないおまじない」です。
 ちなみに師匠は現在では「蔦森かおり」と名を変えているとのことで、その名前でググるとどうやらペーパーラジオニクスにもご執心の様子。「ラジオニクス」とはやはり「科学的根拠のない医療装置」を総称する言葉なのですが、「ペーパーラジオニクス」はその医療装置の回路図を絵に描くだけでも効果を発揮するのだ、との考え方であり、そもそもがガラクタでしかないものを紙に描いたからといって効を奏するはずもありません。やはり一種のおまじないで、発想の根底には「お札」のイメージがあるのかも知れません。

 ――いや……その前にその蔦森何ちゃらって何モンだよ?

 はいはい、ごく簡単に申し上げますと、要するに「90年代型ミサンドリー型メンズリブを唱えていた御仁」です。
 彼は男である自分に嫌気がさしてオカマになり、当時ちょっとだけはやったメンズリブ運動に身を投じ、トランスジェンダー(性別越境)を盛んに唱えていたのです。
 師匠のトランスジェンダーとしての処女作は『男だってきれいになりたい』というもので、当時の男の子たちがおしゃれになった傾向を絶賛し、「女装したっていいじゃないか」と説く本でした。
 しかしこの本については、ぼくも当時読んでいて、実のところそれほどに悪い読後感は持ちませんでした。というのも、彼の眼差しはあくまで男の子への愛の籠もったものであり、

女の子は“男並み”にしてもいいし“女並み”の逃げ道も持っている。

だって産む産まないに関わらず、子供をつくる能力って女の誰にもあるんだからね。努力したり改造して能力持ったわけじゃないんだからね。
(中略)
そのあたりまえなことをこんなに強調して美しいものにして、あげくのはてに、ただのあたりまえの身体を持つ自分にうっとりして「女は、母は、特別な存在なのよ」って自覚するんだ。
(中略)
やめてほしい!! 特に男の子のこと考えたら、今すぐにでもその口を永遠に閉じろ!!

 といった挑発的な言葉が並んでいます。
 今読み返してもちょっと驚くほどで、「いいこと言うなあ」と思うのですが、不思議なのはそこまで言っておきながら、師匠は結局、

そこまで持ってきてくれたのはフェミニズム(女性運動)やった女の人の努力だから、男の子、そのことにありがとうって言っても、言いすぎたり媚びたりしてること、ないよ。

 などとフェミニズムへの感謝を要求し出すことです。「そこまで持ってきてくれたのは」というのは要するに過剰な(ものであると彼が考える)男らしさをフェミニズムが批判したこと、なのですが、いや、「男らしさは全て悪いことと過剰に決めつけた」のがフェミニズムでしょうに。
 事実、彼はこの数年後、『はじめて語るメンズリブ批評』のまえがきで

だがその一方では、ジェンダーの公正化への推進過程でフェミニズムの活動から「男であること」を糾弾され、男性という地位や名誉を損なわれた、「悪者にされた」という反発の動機からの、反フェミニズム的、もしくは反ジェンダーフリーの色合いの濃いものや、弱くなった「男らしさ」にかつを入れ、ジェンダーの不公正の解消を目指さずに「父権」を強めることで、男の立場を復権させようというものもある。
それらの心の原動力は、「男らしくない」ことへの恐れではないかと思う。
「正しい男」は強く立派で尊敬を受けることが普通なはずだ、という呪文に逆に脅迫されている。編者としてそれらの存在があることを認めるが、これをメンズリブだと肯定する気持ちにはとうていなれない。リブではなく「男らしさの問題」そのものだと思う。

 などと書いています。
『男だって――』も見ていけばいわゆる古いタイプなマッチョ男性へは憎悪の感情をぶつけていますし、上の女性へのラディカルな批判は要するに「オカマの、女への羨望故の憎悪」であるとわかります。
 となると男の子への愛に満ちた視線も実のところ、「男らしさを忌避する草食系男子」が最初から想定されているからこそだということは、明らかです。上でフェミニズムへの感謝を要求しているのもそういうことで、師匠の頭の中では最初っから「男の子たちは男らしさに疲弊している、そこから解放されて女の子みたいになりたいはずだ」との幼稚な思い込みでいっぱいなのでしょう(当時、男性がスカートを穿くファッションがちょっとだけはやっていたようでもあります)。
 そうなるともう、彼の男の子への愛も「ホモの上司が妙に優しくしてくる」のといっしょで、「こっちからするとノーサンキューな部分」にのみ注がれているということなのですな。
 結局、90年代型メンズリブとは、こうした男性への憎悪感情そのものでした。
 彼らにとってフェミニズムへの批判はハナから認めることはできず、「男らしさ」とは問答無用で悪なのです。
 このまえがきは

こで今回の編集では、メンズリブを、自分という「男性」以外のすベての他人の「性」(女性、同性愛男性・女性、インターセクシュアル、トランスジェンダー、トランスセクシュアルなどを含めた)にも、そして周縁に追いやられているすべての人にも、尊厳と公正を認めようと模索する、男性のための当事者運動と広義にとらえた。

 と続きますが、「男性」運動を女性やセクシャルマイノリティのための運動であると解釈することのどこが「広義にとらえ」られているのかさっぱりわかりません。と言うか、そんなの「今回はトカゲもほ乳類であると広義にとらえた」と言っているようなものです。要するに彼にとってのメンズリブとは、「女性やセクシャルマイノリティへの謝罪と賠償」そのものなのでしょう。
 彼らのコミュニティではトランスセクシュアル、トランスジェンダーの人々を崇め奉り、トランスセクシュアル、トランスジェンダーの人々は女性ジェンダーを身につけた自分を誇示する、といった傾向が大変に強かったように思います。
 そこでこそ「俺たち選ばれし者だけが正しい男であり、他の男どもはクズだ」とのまさに醜い「マチズモ」が発露されているのですが、彼らはどういうわけか、そうした格好の悪い自分たちの振る舞いには驚くほどに無自覚です。
 何でも、師匠はオカマになる前にバイクについての著作があるそうで、ここからはマッチョな男がそんな自分から逃避するために、当時「ナウい思想」であるともてはやされたトランスジェンダーにハマった、といった構図が見えてきます。
 師匠の自伝的な著作『男でもなく女でもなく』のラストではUFOを見てしまう下りがあり、当時は「あぁ、『まんが道』のラストといっしょで一種の象徴的表現なんだろうな」と思っていたのが、今にしてみれば何とも示唆的だなあと、思い返してみると感慨深いものがあります。「悪い意味でのピュアさ」「選民思想」を持った師匠がオカルトへと足を踏み入れるのは、もう必然だったと言えるかも知れません。
 いえ、これは「オカルト信奉者は悪人」と言っているも同然で、少し軽率な言い方かも知れません。
 オカルト信奉者のほとんどは無害な善人だと思います。が、一方でタチの悪い人が多いという印象もある。上に書いたある種の「選民思想」がオカルトの根底に通奏低音として流れていることもまた、否定しにくいのです。
(それにしてもしばしばフェミニズムに親和的な人がオカルトに過剰な憎悪を燃やしているのを見ていて、ぼくはどうにも不思議な気がするのですが。彼らは女性が占い好きなことをどう考えているのだろう?)。

 実はここしばらく、「ツイッターでフェミニストに対して批判的なことを言っている人たちがいたので、調子に乗って唱和したらいきなり叱られたでござる」という機会を何度か持ちました。
 蔦森師匠の場合も同じで、もしぼくが彼の『男だって――』を読み、「我が意を得たり」とばかりにフェミニズムを批判した内容の手紙を彼に書き送っていたらやはり、同じような事態が起こることが想像できるのではないでしょうか。
 彼らの、フェミニズムに対するツンデレ的ヤンデレ的感情の本質は、一体何なのか。
 ぼくは度々、「女災」の原因はフェミニストそれ自体ではない、と書いてきました。フェミニズムそれ自体をラスボスであると考えるのは適切ではないと。
 しかし、それはこう言い換えられるかも知れません。

「ラスボスは、フェミニズムに心惹かれてしまうぼくたちの弱さそのものである」。

 少し先走りました。
 順を追って説明します。
 彼らの幼稚で不可解な言動の原因は、どこにあるのでしょう。
 考えればそれほど難しいことではありません。
 左派である彼らにしてみると、フェミニストは仲間内でそれなりの勢力と権力を持っている一派です。それに対して胡散臭いものを感じてはいても、真っ正面から否定するのは憚られる。
 結果、彼らが「男性差別云々」などと主張する時はどうにも不自然な論理展開を辿らざるを得ない。
 ゴッドマンに出てくる怪獣が貴重なセットを壊さないように大暴れしている*ような、そんな何かに遠慮した暴れ方しかできないわけです。

*『行け!ゴッドマン』。低予算のため、怪獣は貴重なセットを壊さないよう細心の注意を払って暴れ回るという、妙な番組でした。

 さんざん左派を腐しましたが、しかし「左派」を「反体制」と考えるならば、それそのものは否定するべきものではないでしょう。労組が反原発運動とかやってないで駆け込んでくる失業者の雇用について真摯に取り組んでいるのであれば、それは存在価値があるはずです。
 が、こと「女災」問題についてはこうした「左派」的なスタンスには賛成できない。
 何故か。
 少なくとも彼ら「男性差別クラスタ」を見ている限り、「弱者男性」というカテゴリを作り上げ、「弱者仲間」でつるんでフェミニストたちが「体制」とやらからかすめ取ったおまんじゅうを更にかすめ取ろう、或いは彼女らに手もみをすることでご相伴にあずかろう、といったことしか考えていないからです。
 そしてその時には必ず、彼ら自称「弱者男性」よりも弱い者が仮想的な悪者にされ、スケープゴートになるのです。蔦森師匠の不可解極まる「メンズリブ」の定義を考えた時、それは明らかになるでしょう。
 上に、「ラスボスは、フェミニズムに心惹かれてしまうぼくたちの弱さそのものである」と書きました。
 しかしそれを更に言い換えれば、

「ラスボスは、差別と言うお題目を唱えればいいことがあると考えるぼくたちの弱さそのものである」。

 となるのかも知れません。
 ぼくたちは恐らく、「サベツ利権」にはあずかれないし、あずかるべきでもない。
 万が一、あずかれる時は恐らく、蔦森師匠が行ったように、「サベツ界の先輩」であるフェミニストたちにカステラを届ける羽目に陥る。
 しかしカステラを贈って彼女らのご相伴にあずかっても、それって実は税金だし、その税金はぼくたちの稼いだお金から出ている。
 だとしたらやっぱりそれって、ムダじゃあないでしょうか?