中庸左派さん のコメント
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A :小 林正樹監督のドキュメンタリー映画『東京裁判』( 1983 年公開、 DVD /デジタルリマスター版あり) の基本的構成と取り上げた問題。上映時間は約 4 時間 37 分( 277 分)、 2 枚組 DVD が一般的。(以下 X の説明) アメリカ国防総省が撮影・保管していた極東国際軍事裁判(東京裁判)の記録フィルム(約 50 万フィート/約 170 時間分)を中心に、戦前・戦中・戦後のニュース映画や諸外国の映像を 5 年かけて編集した作品。ナレーションは佐藤慶、音楽は武満徹。 基本的構成映画は「実況放送的」な時系列構成で、裁判そのものだけでなく背景と文脈を立体的に描きます。脚本・監督補佐の小笠原清氏によると、三本の柱(三つの軸) ** で組み立てられています。 裁判の流れをドキュメントする 法廷内のやりとり(開廷、起訴状朗読、審理、証言、弁論、判決)を時系列で追う。メイン素材は米軍撮影の法廷フィルム。 裁判で告発された歴史的事件・軍事行動・社会状況を示す 訴状と照らし合わせ、満州事変、日中戦争、三国同盟、真珠湾攻撃、太平洋戦争などの当時の戦場・ニュース映像を挿入。何を裁いているのかを視覚的に理解させる。 裁判と同時進行の戦後日本・世界情勢を示す 占領下の日本や国際情勢の映像を並行させ、裁判が置かれた社会環境を浮かび上がらせる。 全体の流れ(概略):冒頭(裁判開始まで約 40 分以上):ポツダム会談、太平洋戦争の記録映像、昭和天皇の終戦の詔勅(全文を字幕付きで収録)、占領開始など。裁判に至る背景を丁寧に描く。 裁判本編: 1946 年 5 月 3 日開廷から 1948 年 11 月 12 日判決まで。 28 人の A 級戦犯(東條英機ら)を中心に、起訴状( 55 項目:平和に対する罪、殺人、通例の戦争犯罪・人道に対する罪など)、弁護・検察の攻防、大川周明の法廷乱入事件など。 挿入部分: BC 級戦犯の処刑シーン(上海での絞首刑など)、ナチス・ドイツの興亡とニュルンベルク裁判( 20 分以上、処刑後の遺体写真も含む)。 結末:被告全員の判決(死刑 7 人、終身刑など)、 1948 年 12 月の死刑執行への言及。その後、戦後の紛争(朝鮮戦争、ベトナム戦争など)を字幕で示し、ナパーム弾から逃げる少女(ファン・ティー・キムフック)の写真で終わる。「 END 」マークは意図的に付けず、問題が未解決であることを示唆。 長尺のため、劇場公開時は中盤(約 2 時間 15 分頃)に休憩が入る構成でした。 DVD では分割視聴しやすくなっています。先入観を排し、素材の語る力を優先した客観的な編集が特徴です。取り上げた問題点映画は「できるだけ客観的に後世に真実を伝えたい」という姿勢で作られ、観客自身が検証できるようにしています。直接的な断罪や一方的な結論は避けつつ、裁判の記録と文脈を通じて以下の論点を浮き彫りにします。 勝者の裁き( Victor's justice )の公平性 :戦勝国が敗戦国を裁く構図自体の問題。連合国側の行為(原爆投下、ソ連の行動など)が問われない二重基準。 事後法( ex post facto )の適用:「平和に対する罪」「 人道に対する罪」が行為後に定義された点。弁護側(特にアメリカ人弁護士ブレークニー)の「国際法は国家の戦争を非合法化したことはない」「真珠湾が殺人なら原爆は誰が落としたか」といった指摘を重視して再生。 個人の刑事責任 vs 国家行為 :戦争は国家の行為であり個人に責任を負わせられるのかという根本的な法理論上の議論。 被告選定と天皇の戦争責任: 28 人の選定の arbitrarily (恣意性)、天皇が起訴されなかった政治的判断(米国の占領統治上の都合など)。裁判長ウェッブらの意向と米国の対応のギャップ。 パール判事(インド)の反対意見 :事後法や手続きの不当性を理由に全員無罪を主張した点。ただし映画は「行為自体を正当化しない」という彼の立場もきちんと伝える。 裁判の政治劇としての側面: 連合国内部の矛盾・駆け引き、スター偏重の撮影、削除された速記録の再生など。裁判が「文明の裁き」か「報復の手段」かを問う。 戦争そのものの本質と戦後への影響:侵略か自衛か、戦争責任の所在、裁判後も続く紛争(冷戦下の戦争)を示し、「問題は終わっていない」と提起。 南京事件などの具体的な戦争犯罪も扱いますが、全体として裁判の正当性・限界を観客に考えさせる作りです。 歴史学的な価値も高く、削除された弁護側の発言を蘇らせた点などが評価されています。この作品はブルー リボン賞作品賞やベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞し、戦後日本の進路を考える上で重要な記録として位置づけられています。 DVD 版(特にデジタルリマスター)では映像の鮮明さが向上しています。
裁判や法律の世界は、時には限界を露呈し、茶番と化すこともある。それは、事後法による裁き(後出しジャンケン)という問題であったり、法律というものは、建前として厳密な要件を必要とするものだったりするからである。要件認定時の拡大解釈といったこともあるだろう。
法的責任は方便の一つに過ぎない一方で、法的責任を問われなかったから、“無罪”だみたいな形式論も横行する。タカイチあたりの薄っぺらい人間は、この手の形式論が好きだろう。だから、タカイチは大日本帝国による侵略植民地支配は、当時は様々な資本主義国(帝国主義国家)がしのぎを削って行っていたから、反省などしない、等と開き直るのである。しかし、不倫が、そうであるように、法律に違反しないから、社会的に”無罪“ということにはならない。
歴史は価値相対などではなく、正義の名において、或いは善悪の普遍的規範により、常に断罪されている。国民国家はそのそのような歴史を継承している。
だから、私は天皇制というシステムは「戦争責任」を免れないと考えている。まさに、当時その当事者であり、現人神として戦争の遂行の精神的支柱だった天皇裕仁は、その責任を免れないと、私は考えている。
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