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kasenoさん のコメント

万葉集とか黒人のブルースなんかも共通力があるかもしれないですね。

学生のとき、自分と障害児の弟を旅を四国までしながら景色はどんどん元風景に入りこんでいって(山や滝や海、そして、せせらぎや木漏れ日)ぼくがどんどん箱に閉じた気持ち(懐かしい思いで)と対話していくというロードムービーを作ったのですが、、(二時間あります)講評で非常勤講師に男とセックスしてるほうがましだとか、むしろ障害者をバカにしてるように見えるよとか酷評されて、どこに、自分の弟をバカにするために金と時間を一生懸命に作る兄貴がいるんだ!お前がいってんのは過剰な動物愛護で本末転倒になっているような話なんだ。外からきれいに講評してんじゃねぇぇぇーってキレた二十歳のころを思い出しました。

本気で向かい合った結果、バカにしているように映ったというのは、、まぁそれはそれで良かったとおもっています。

道が開け、踏み出せたのは事実ですから。

No.1
139ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
「アイ・アム・サム」というのは、とても挑戦的な作品だ。それは、障害者をテーマにしているからではない。障害者の姿を通して、人間の根源的な悲しみと、正面から向き合っているからだ。 この作品の主人公であり、タイトルにもなっているサムは、知的障害者である。映画の中でサムは、分かりやすくするためか「7歳児並みの知能」とされている。それを、障害者ではないショーン・ペンが演じている。 テーマは、非常にストレートだ。知的障害者のサムに、子供を育てられるか否か? ただし、その結論はすでに示されている。 答えは「否」――つまり、育てられない、というのだ。 そういう、身も蓋もない内容を描いたのが、この作品なのである。 しかしながら、この作品は、必ずしも身も蓋もない内容に終わっているわけではない。人間の根源的な悲しみを扱いながら、単なる絶望にはとどまらないのだ。そこのところが、この映画を全く特別なものとしている。 知的障害者のサムは、健常者の女性と暮らしていた。やがて2人の間に子供ができるのだが、女性は、子供を産むとすぐに行方をくらましてしまう。そうして、サムは生まれたての赤ん坊、ルーシーを一人で育てなければならなくなった。 サムは、隣人の協力なども仰ぎながら、ルーシーを育てていく。しかし、やがて彼女が6歳くらいになると、さまざまなトラブルに見舞われる。特に、「教育をどうするか」という問題が、大きく立ちはだかるのだ。 サムは、ルーシーの発する素朴な疑問にも、次第に答えられなくなる。そればかりか、できのいいルーシーに、時には教えられるような格好になる。そのうえ、子育ての状況を監視に来た当局の係員の前で、興奮して我を失うという失態も演じてしまう。 その結果、ルーシーは養護施設に強制的に引き取られてしまうのだ。サムでは、子供を育てられないと判断されたからだ。そうして、2人は引き裂かれてしまう。 しかしながら、サムもルーシーも、引き裂かれることを望んでいない。彼らは、再び一緒に暮らすことを望む。 ところが、そこに難しい問題が横たわる。アメリカでは、子供に「教育を受ける権利」というのが認められているのだが、知的障害者の親では、それが果たされない――というのだ。 そのためサムは、裁判に打って出る。ちょうど、映画で「クレイマー、クレイマー」を見たばかりだったので、有能な弁護士に頼めば、ルーシーを取り戻してくれるのではないかと考えたのだ。 そうして、アニーという有能な弁護士に弁護を引き受けてもらうことになるのだが、そこに、一つの悲劇が待ちかまえている。アニーは、裁判に勝つために、ある残酷な決断をくだすのだ。 それは、「愛し合っている親子を引き離すのは非人道的だ」と、情に訴えても勝ち目はないと判断したため、なんとかサムの「子供を育てる能力」を証明しようとするのである。つまり、サムに健常者のような振る舞いを求めるのだ。そうして、「7歳児並の知能」という評価を、裁判で覆そうとするのである。 しかしその結果、サムは、自らの知的障害というハンデキャップと、正面から向き合わされることになる。と言うより、それを否定しなければならなくなるのだ。「自分は知的障害者ではない」と、自らの性質――もっといえば「個性」を、真っ向から否定する必要に迫られるのである。 しかし、それがサムを苦しめる。サムは、これまで自身の障害と、なんとか折り合いをつけながら生きてきた。しかし、裁判に臨む過程で、相手弁護士から執拗にそれを追求される。いうならば、彼の心の傷口をほじくり返されるのだ。 そうして結局、それに耐えられなかったサムは、健常者のように振る舞うこともできず、裁判に負けてしまう…… こうして筋だけ追ってみると、この映画はあまりにも救いがない。身も蓋もなく、人間の根源的な悲しみをありありと浮き彫りにしている。 しかしながら、そういう内容であるにもかかわらず、この作品はエンターテインメントとして、しっかりと成立しているのだ。明るく、前向きな雰囲気を、ちゃんと身にまとっているのである。もちろん、ポジティブ一辺倒とはいかなけれど、暗い、陰鬱な話では終わっていない。 なぜなら、 
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。