「アイ・アム・サム」というのは、とても挑戦的な作品だ。それは、障害者をテーマにしているからではない。障害者の姿を通して、人間の根源的な悲しみと、正面から向き合っているからだ。


この作品の主人公であり、タイトルにもなっているサムは、知的障害者である。映画の中でサムは、分かりやすくするためか「7歳児並みの知能」とされている。それを、障害者ではないショーン・ペンが演じている。

テーマは、非常にストレートだ。知的障害者のサムに、子供を育てられるか否か?
ただし、その結論はすでに示されている。
答えは「否」――つまり、育てられない、というのだ。
そういう、身も蓋もない内容を描いたのが、この作品なのである。

しかしながら、この作品は、必ずしも身も蓋もない内容に終わっているわけではない。人間の根源的な悲しみを扱いながら、単なる絶望にはとどまらないのだ。そこのところが、この映画を全く特別なものとしている。


知的障害者のサムは、健常者の女性と暮らしていた。やがて2人の間に子供ができるのだが、女性は、子供を産むとすぐに行方をくらましてしまう。そうして、サムは生まれたての赤ん坊、ルーシーを一人で育てなければならなくなった。

サムは、隣人の協力なども仰ぎながら、ルーシーを育てていく。しかし、やがて彼女が6歳くらいになると、さまざまなトラブルに見舞われる。特に、「教育をどうするか」という問題が、大きく立ちはだかるのだ。
サムは、ルーシーの発する素朴な疑問にも、次第に答えられなくなる。そればかりか、できのいいルーシーに、時には教えられるような格好になる。そのうえ、子育ての状況を監視に来た当局の係員の前で、興奮して我を失うという失態も演じてしまう。
その結果、ルーシーは養護施設に強制的に引き取られてしまうのだ。サムでは、子供を育てられないと判断されたからだ。そうして、2人は引き裂かれてしまう。

しかしながら、サムもルーシーも、引き裂かれることを望んでいない。彼らは、再び一緒に暮らすことを望む。
ところが、そこに難しい問題が横たわる。アメリカでは、子供に「教育を受ける権利」というのが認められているのだが、知的障害者の親では、それが果たされない――というのだ。

そのためサムは、裁判に打って出る。ちょうど、映画で「クレイマー、クレイマー」を見たばかりだったので、有能な弁護士に頼めば、ルーシーを取り戻してくれるのではないかと考えたのだ。
そうして、アニーという有能な弁護士に弁護を引き受けてもらうことになるのだが、そこに、一つの悲劇が待ちかまえている。アニーは、裁判に勝つために、ある残酷な決断をくだすのだ。

それは、「愛し合っている親子を引き離すのは非人道的だ」と、情に訴えても勝ち目はないと判断したため、なんとかサムの「子供を育てる能力」を証明しようとするのである。つまり、サムに健常者のような振る舞いを求めるのだ。そうして、「7歳児並の知能」という評価を、裁判で覆そうとするのである。

しかしその結果、サムは、自らの知的障害というハンデキャップと、正面から向き合わされることになる。と言うより、それを否定しなければならなくなるのだ。「自分は知的障害者ではない」と、自らの性質――もっといえば「個性」を、真っ向から否定する必要に迫られるのである。

しかし、それがサムを苦しめる。サムは、これまで自身の障害と、なんとか折り合いをつけながら生きてきた。しかし、裁判に臨む過程で、相手弁護士から執拗にそれを追求される。いうならば、彼の心の傷口をほじくり返されるのだ。
そうして結局、それに耐えられなかったサムは、健常者のように振る舞うこともできず、裁判に負けてしまう……


こうして筋だけ追ってみると、この映画はあまりにも救いがない。身も蓋もなく、人間の根源的な悲しみをありありと浮き彫りにしている。
しかしながら、そういう内容であるにもかかわらず、この作品はエンターテインメントとして、しっかりと成立しているのだ。明るく、前向きな雰囲気を、ちゃんと身にまとっているのである。もちろん、ポジティブ一辺倒とはいかなけれど、暗い、陰鬱な話では終わっていない。

なぜなら、