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ゴトーふにゃおさん のコメント

 ちょっと面倒なので、先にまとめておきます。
 「書いてることは私自身の思考とほぼ(ややがっかりするほど)変わりないと思うんだけど、何か“その先”はないの?」

 はじめまして。この項へのコメントのために入会しました。
 書かれていること、だいぶ展開に無理があるように思えました。というのも、論が「差別縛り」じみて様々なことを差別・区別・線引というワードと無理にでもひっかけて書かれているからだと思います。

 まず「あたりまえの人間はどこかで線を引いて」と書かれていますが、それは自然なことでしょうか? 人に「君にとって家族はどこまで? 義兄も家族?」と聞かれれば私も区別をしますが、普段から意識していることではありません。自身でも項の後半では「境界はあいまいなもの」と書かれていますし、話の盛り上げのために論が全体として誘導的に思えます。それとも、後半から書かれている自身の考えを何か異端なものだとしているのでしょうか?
 読み返してみると「ひとの心が差別を大好きにできているから」という部分も相当変ですね。これらの部分が間違っていたとしても記事全体が崩壊するわけではありませんし、そもそも書く必要のある部分なのかということもありますが、文脈がおかしくて読みづらいです。

 次に、これは単に書き方というか言葉に縛られているのだと思うのですが、「平等」と「差別・区別・線引」がまるで共存しないかのような書き方が気になりました。(平等という幻想が何なのかも重要ですが)
 「人は皆平等」と「だから皆を平等に愛せ」の間にはワンクッションがあります。そして「人は皆平等」と「でも自分は仲間と家族ぐらいしか愛せません」は矛盾しません。それは愛という感情に認識の限界があるというだけです。どうでもいいことですが、「人を皆愛す」のは神のお仕事です。
 同じように「人は皆平等」と「その中にオタクというグループがあります」も矛盾しません。
 これも、話に差別・平等という言葉を無理に組み込んでいるように思えます。

 重箱の隅をつつくのは何時誰にもキリがないことですし、文章全体の主旨は後半のアマチュアリズムにあると思います。それについても思うところを述べたいのですが、またの機会にします。それについて記事を書かれることがまたあると思うので。
 ただ全体として、普通のことを差別というワードに絡めて小難しく書いたために、おかしくなっているように読めるのです。そのために、後半の主旨に話題を変える際に飛躍を感じます。差別を話題としているには尻切れトンボで、アマチュアリズムの話は急に出てきてまとまりを感じません。
 どうか、別々の記事として書かれることを願っています。

 コメントって、推敲しづらくて面倒ですね。
No.1
130ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 きょうの朝、ペトロニウスさんと話していて(じっさいしょっちゅう話しているのですね)、ちょっと記事のネタが浮かんだので、きょう3本目の記事を書いてみます。  いや、じっさい、書こうと思ったら1日に5本だろうが7本だろうが、書けないことはないんですよね。書かないでいるとめんどくさくなってしまうんだけれど、書き始めるといくらでも書ける。ぼくはそういう人のようです。  ただ、まあ、あまり書きすぎてしまうと1本1本の内容が薄くなってしまうので、そこは考えないといけないところですね。きょうのこれ移行の記事はあしたに回そうと思います。  で、何の話だっけ? そうそう、ペトロニウスさんと話していて浮かんだ話。「差別」と「仲間意識」の話ですね。  これはおそらく賛成してもらえることだろうと思うのですが、差別という言葉には、紛れもなくネガティヴな意味が存在しています。少なくとも現代社会で差別は良いことだ、と語るひとはあまりいない。  じっさい、嫌韓やらなんやら、差別的な行動に走っているとしか思えないひとにしても、自分は差別をしている!と大声で叫ぶことはしません。  むしろ、自分がやっていることはあくまで「区別」であり、それは差別とは本質的に異なることなのだ、というエクスキューズを用意していることがほとんどであるように思います。  それくらい、現代社会において差別は悪いことだ!というのは常識と化しているのだと思うのです。しかし、まあ、それなら差別をしないでいられるかと云うと、そういうわけでは決してないんですよね。  むしろ差別が忌まれるのは、ひとの心が差別を大好きにできているからに違いありません。放っておくとひとは差別をするものなのです。だからこそ、人為的に「差別はいけない!」と触れまわらなければならない。それがまあ、ほんとうのところだと思います。  で、ぼくは、差別はすべて一様に悪いことだ、すべてのひとを平等に愛せるようにならなければならないなんて戯言を、ひとかけらも信じてはいないのです。  いやまあ、たしかにそれはひとつの理想ではあるのかもしれませんが、あえて云うなら非人間的な理想です。決して現実にはならないであろう夢です。現実には、仲間を大切にすれば、「それ以外」のことを切り捨てることにつながります。  その「仲間」とは、たとえば地域の友人たちのことであったり、あるいはもっと広く同じスポーツを楽しんでいるファンのことであったり、あるいは日本人全体のことであったりするのですが、とにかく人類すべてをひとしく愛することができるような人物は異端であり、これもあえて云うなら異常でしょう。  あたりまえの人間はどこかで線を引いて、ここからここまでが仲間で、この外はそうではない、と判断するものです。  たとえば、『ヤンキー経済』で描かれている「マイルドヤンキー」たちはまさにそういう行動理念に沿って動いているように見えます。そして、しばしば極端な個人主義者の集団と見られる「オタク」にしても、じっさいのところ、何も変わるところはないのです。  「ほんとうのオタクとは」とか、「あんな連中はオタクじゃない」と考えるということは、つまりは「オタクか、そうでないか」と線を引き、どこかで区別し、差別していることに違いないのですから。  ぼくは何も、そのことを責めるつもりはありません。ひとがひとでるかぎり、やはりどこかで線を引く必要はあるのです。  すべてのひとをまったく差別することなく平等に考えられたら、それはたしかにすばらしいでしょうが、そこには一切の「愛」がないということにもなるのではないでしょうか?  そう、自分の妻や、家族や、友人や、仲間を厚遇するということは、紛れもない差別ではありますが、しかしそれこそがひとが持ちえる唯一の愛のかたちなのです。  「みんな大好き」であるということは、優先順位が存在しないということで、だれも好きではないということと変わりません。そういうものなのです。  何が云いたいかというとですね、線を引くこと、差別することはひとの本質にかかわる行動だということです。  ぼくはもちろんすべての差別を無条件で肯定するつもりはありませんが、同時に、すべての差別を悪とし排斥するつもりもありません。ようするに何もかも程度の、バランスの問題であって、一切差別することなく暮らしていくなどということは、しょせん無理なことだと思うのです。  そして、ここがぼくとペトロニウスさんの妙に気が合うところなのですが、線を、「境」を作ってしまうのは仕方ないと認めたとしても、その上で 
弱いなら弱いままで。
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