弱いなら弱いままで。
きょうの朝、ペトロニウスさんと話していて(じっさいしょっちゅう話しているのですね)、ちょっと記事のネタが浮かんだので、きょう3本目の記事を書いてみます。
いや、じっさい、書こうと思ったら1日に5本だろうが7本だろうが、書けないことはないんですよね。書かないでいるとめんどくさくなってしまうんだけれど、書き始めるといくらでも書ける。ぼくはそういう人のようです。
ただ、まあ、あまり書きすぎてしまうと1本1本の内容が薄くなってしまうので、そこは考えないといけないところですね。きょうのこれ移行の記事はあしたに回そうと思います。
で、何の話だっけ? そうそう、ペトロニウスさんと話していて浮かんだ話。「差別」と「仲間意識」の話ですね。
これはおそらく賛成してもらえることだろうと思うのですが、差別という言葉には、紛れもなくネガティヴな意味が存在しています。少なくとも現代社会で差別は良いことだ、と語るひとはあまりいない。
じっさい、嫌韓やらなんやら、差別的な行動に走っているとしか思えないひとにしても、自分は差別をしている!と大声で叫ぶことはしません。
むしろ、自分がやっていることはあくまで「区別」であり、それは差別とは本質的に異なることなのだ、というエクスキューズを用意していることがほとんどであるように思います。
それくらい、現代社会において差別は悪いことだ!というのは常識と化しているのだと思うのです。しかし、まあ、それなら差別をしないでいられるかと云うと、そういうわけでは決してないんですよね。
むしろ差別が忌まれるのは、ひとの心が差別を大好きにできているからに違いありません。放っておくとひとは差別をするものなのです。だからこそ、人為的に「差別はいけない!」と触れまわらなければならない。それがまあ、ほんとうのところだと思います。
で、ぼくは、差別はすべて一様に悪いことだ、すべてのひとを平等に愛せるようにならなければならないなんて戯言を、ひとかけらも信じてはいないのです。
いやまあ、たしかにそれはひとつの理想ではあるのかもしれませんが、あえて云うなら非人間的な理想です。決して現実にはならないであろう夢です。現実には、仲間を大切にすれば、「それ以外」のことを切り捨てることにつながります。
その「仲間」とは、たとえば地域の友人たちのことであったり、あるいはもっと広く同じスポーツを楽しんでいるファンのことであったり、あるいは日本人全体のことであったりするのですが、とにかく人類すべてをひとしく愛することができるような人物は異端であり、これもあえて云うなら異常でしょう。
あたりまえの人間はどこかで線を引いて、ここからここまでが仲間で、この外はそうではない、と判断するものです。
たとえば、『ヤンキー経済』で描かれている「マイルドヤンキー」たちはまさにそういう行動理念に沿って動いているように見えます。そして、しばしば極端な個人主義者の集団と見られる「オタク」にしても、じっさいのところ、何も変わるところはないのです。
「ほんとうのオタクとは」とか、「あんな連中はオタクじゃない」と考えるということは、つまりは「オタクか、そうでないか」と線を引き、どこかで区別し、差別していることに違いないのですから。
ぼくは何も、そのことを責めるつもりはありません。ひとがひとでるかぎり、やはりどこかで線を引く必要はあるのです。
すべてのひとをまったく差別することなく平等に考えられたら、それはたしかにすばらしいでしょうが、そこには一切の「愛」がないということにもなるのではないでしょうか?
そう、自分の妻や、家族や、友人や、仲間を厚遇するということは、紛れもない差別ではありますが、しかしそれこそがひとが持ちえる唯一の愛のかたちなのです。
「みんな大好き」であるということは、優先順位が存在しないということで、だれも好きではないということと変わりません。そういうものなのです。
何が云いたいかというとですね、線を引くこと、差別することはひとの本質にかかわる行動だということです。
ぼくはもちろんすべての差別を無条件で肯定するつもりはありませんが、同時に、すべての差別を悪とし排斥するつもりもありません。ようするに何もかも程度の、バランスの問題であって、一切差別することなく暮らしていくなどということは、しょせん無理なことだと思うのです。
そして、ここがぼくとペトロニウスさんの妙に気が合うところなのですが、線を、「境」を作ってしまうのは仕方ないと認めたとしても、その上で
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コメント
コメントを書くちょっと面倒なので、先にまとめておきます。
「書いてることは私自身の思考とほぼ(ややがっかりするほど)変わりないと思うんだけど、何か“その先”はないの?」
はじめまして。この項へのコメントのために入会しました。
書かれていること、だいぶ展開に無理があるように思えました。というのも、論が「差別縛り」じみて様々なことを差別・区別・線引というワードと無理にでもひっかけて書かれているからだと思います。
まず「あたりまえの人間はどこかで線を引いて」と書かれていますが、それは自然なことでしょうか? 人に「君にとって家族はどこまで? 義兄も家族?」と聞かれれば私も区別をしますが、普段から意識していることではありません。自身でも項の後半では「境界はあいまいなもの」と書かれていますし、話の盛り上げのために論が全体として誘導的に思えます。それとも、後半から書かれている自身の考えを何か異端なものだとしているのでしょうか?
読み返してみると「ひとの心が差別を大好きにできているから」という部分も相当変ですね。これらの部分が間違っていたとしても記事全体が崩壊するわけではありませんし、そもそも書く必要のある部分なのかということもありますが、文脈がおかしくて読みづらいです。
次に、これは単に書き方というか言葉に縛られているのだと思うのですが、「平等」と「差別・区別・線引」がまるで共存しないかのような書き方が気になりました。(平等という幻想が何なのかも重要ですが)
「人は皆平等」と「だから皆を平等に愛せ」の間にはワンクッションがあります。そして「人は皆平等」と「でも自分は仲間と家族ぐらいしか愛せません」は矛盾しません。それは愛という感情に認識の限界があるというだけです。どうでもいいことですが、「人を皆愛す」のは神のお仕事です。
同じように「人は皆平等」と「その中にオタクというグループがあります」も矛盾しません。
これも、話に差別・平等という言葉を無理に組み込んでいるように思えます。
重箱の隅をつつくのは何時誰にもキリがないことですし、文章全体の主旨は後半のアマチュアリズムにあると思います。それについても思うところを述べたいのですが、またの機会にします。それについて記事を書かれることがまたあると思うので。
ただ全体として、普通のことを差別というワードに絡めて小難しく書いたために、おかしくなっているように読めるのです。そのために、後半の主旨に話題を変える際に飛躍を感じます。差別を話題としているには尻切れトンボで、アマチュアリズムの話は急に出てきてまとまりを感じません。
どうか、別々の記事として書かれることを願っています。
コメントって、推敲しづらくて面倒ですね。
はじめまして、初コメントさせていただきます。
自分は普段書きものをしないので、拙い文章になりますがご容赦ください。
海燕さんの今回の記事の、差別というものが人の線引きをしたがる自然な感情に根ざしてるものという見方には、
なるほどな、と思うところがありました。
人が人との間に境を設定する事に関して自分が思うのは、ボーダー外の人や分野に触れるときには寛容さと覚悟が
重要じゃないかという事です。
二つほど自分の話をさせて頂きます。
ひとつは自分の以前勤めていたバイト先の話で、よくある話だとは思いますが、そこは新人の人にあまり寛容でない環境でした。
制服の身に着け方にしても、規則どおりの着方をしていない新人の人に対して、ベテランの人が「何でそんな着方するんですか!規則ですよ!」といった感じの言い方をしていて、自分は「新人だって分からないのかな?にしてももうちょっと穏やかに言えないものかな。」
などと思っておりました。
それと二つ目。正直いいますと自分は韓国人の血縁です。根拠の薄い単なる自分の実感で申し訳無いのですが、
最近の日本のマスコミにおける従軍慰安婦問題の扱いにはちょっと違和感を覚えています。韓国の政府、マスコミの論調が
おかしいことばかりがクローズアップされていて、肝心の「問題」に関して光をあてている所がほとんど無いなと思えてしまっています。
読んでくだされば分かると思いますが、完全に自分の実感のレベルの話で、お前がどう思うかなんて知ったこっちゃ無いよと言われればそれまでの話です。ですが自分としては以上のケースではどちらもボーダーの内と外の両者にとって
何かが損なわれてしまっているなと思えます。
ボーダー内に余所者が入れば普通中の人は不寛容になりがちですね。それに対して入ってきたほうがうまく謝罪なりして
後腐れを残さず、かつコミュニティ内に溶け込められれば理想です。が、それはあくまで理想でうまくいかないことも多い。
だから自分なりの及第点を目標に最善を尽くし、それでもうまくいかない場合は、仕方ないやと諦めることが必要です。
また、自分が何らかのコミュニティ内の人間であることもしばしばで、そう考えるとボーダー外の人がやってきて、それとはしらず自分等の内でのルールを無視することもありうるので、これもある程度覚悟していなければいけないなと思うのです。そういった相手に対しては、ルールを受け入れてくれるよう説得する。それでもダメなら距離を置くことが必要です。コミュニケーションの上では当たり前なのに、ある区分けになるとこういったレベルの話をすっ飛ばしてしまって、相手を無条件に悪者にしてしまう。このことが差別の問題なんじゃないかなというのが自分の考えです。
思えば、自分が苦手とするタイプの人は、不寛容と無頓着のバランスが両極端というか、自分と合わない配分だなと
思える人のようです。また、自分がこの人いい意味ですごいな、思える人はこのバランスが完璧で、いろんなグループに属している感じの人です。嫌な印象ほとんど残さず、出たり入ったり思いのまま。こういう人もある意味、ボーダーを越えられる人というのでしょうか。
まるでチートですね。見習いたいものです。難しそうですが。
以上、駄文失礼しました。
>>1
冒頭でゴトーふにゃおさんが「書いてることは私自身の思考とほぼ(ややがっかりするほど)変わりないと思うんだけど」とおっしゃられているわりには、挙げられている内容が「おかしい、変だ」と感じられた部分ばかりなので、少し趣旨がわかりにくく感じました。
「差別」ないし「アマチュアリズム」を語るときにはそれぞれ一般的な文脈があると思いますが、その文脈と文脈の間をいわば「無理にでもひっかけて」書いているというこの本文そのものが、まさに海燕さんなりのアマチュアリズムの実践だと読めたので、そこに強引さが感じられるということ自体は、本文の内容からすると大した問題ではないように思えるのですが、いかがでしょうか。
>>3
自分の文章は読みづらいですね。まず、その言い訳をします。
この記事は前半の差別についてと後半とで2つに分かれていますが、記事の主張は“2つとも”(ほぼ)私の考え方と一致します。
ですが、私がつついた重箱隅部分は話として飛躍していて、その部分を丸々抜いても話の組み立て・主張には関係ありません。簡単な足し算をしているところに急に変数xが入り込むみたいです。意味を見出すとすると、後半につなげる助走のためなのですが、それらは私から観ておかしい・間違っている意見が書かれている部分なので助走としては不適切としました。怪我します。
そんな強引な誘導は「必要でないなら、話が不明瞭になるし、話全体の正しさ(ウヘエ)が損なわれる」「必要なら、そもそも記事を2本にすればいいのに」「というかもっとマシな繋げ方があるんじゃない?」となります。
では「記事を強引にでも一つにつなげるために必要だったのだ」という話になりますね。
私にはこの視点が完全に抜けていました。考慮に入れていませんでした。考えが広がりました。嫌味でなく、ご指摘ありがとうございます。以下に、改めて考えたことを書きます。
分野の越境について、記事では「それぞれ無関係とも見える、しかしじっさいには決してそうではないことの関連性を可視化し」という部分で主張が一番はっきりとしていると思います。私はこれを読んで、海燕さんは越境に強引さ・飛躍を用いるつもりはないのだと感じました。
これは咀嚼して書き直せば、分野別けされた批評では注目されなかった繋がりを改めて指摘するということでしょう。決して「本当は縁も所縁もない2つを悪魔合体させよう」ということではないはずです。「世界の物事にはどんなにか細くても繋がりがあるんだよ!」と言うこともできますが、これをこの記事に当てはめるには無理があります(説明割愛)。
ところで、記事の前後の話題には本来は「区別・分野別け」というワードからして細くとも明確に繋がりがあります。そちらの助走を十分に使わず、強引に話を繋げるというのも不思議なことです。
というわけで、savaさんは記事を間違って読み取っているのだろう…と私は最初に考えました。
ですが、真逆の考え方もありますね。私がこの記事の読み取りを間違っていないとしても、海燕さんの本心とは違うという可能性です。記事の連載を長く読まれている方には意図が伝わっているが、一見に近い私には伝わらないのかも。
さて、くどいですが私の主張を繰り返しますと、「話の飛躍が強引すぎて、話題がどちらも中途半端なんだよ」「言ってることが(私的に)当たり前すぎるんだよ」「繋げるならもっと上手くやってほしいし、あるいはそれぞれ別の記事にして“その先”を何か見せて欲しいんだよ」という方がわかりやすいでしょうか?
余計な言い訳や主張もありましたが、これでsavaさんへの回答になったかと思います。
>>4
とても誠実にご回答いただき、ありがとうございます。
最初のレスについては文頭のまとめと内容がどう繋がっているのかよくわからず主張を掴みかねていたのですが、今回の返信を受けて、おっしゃられていることがよくわかりました。
まず補足しておくと、ぼく自身は本文を読んで強引さは感じていません。これは、ご指摘のように、ぼくが海燕さんのブロマガをある程度の期間読んでいることも影響していると思います。
その上で、ぼくとしては、一見「それぞれ無関係とも見える」ものを接続した結果、読者によってはそれが強引に見えることもあれば、一方でぼくのようにあまり飛躍を感じない読者もいる、ということは充分に起こりうることですし、そのことがそれほど重要な瑕疵だとはあまり思っていません。
ただし「もっとマシな繋げ方があるんじゃない?」とおっしゃられれば、そうなのかもしれませんね。まあ、そういう意見を受けてどう記事を書くかは海燕さんにかかっている話ですし、ぼくがどうこう言うことでもないかなと思っています。(まあそれを言ってしまうと、そもそもこうやってレスをつけてること自体が余計なでしゃばりかもしれませんが。。。)
あと「言っていることが当たり前すぎる」「"その先"を何か見せて欲しい」という意見には、半分くらい同意しますね。ただし、こういう基本的な立ち位置の確認はコミュニケーションの土台として有用なプロセスだと思いますし、この本文の内容を「当たり前」と感じない人も世の中には決して少なくはないとぼくは思っています。
人間には、物や人に名前を付けて内外に分けるという「愛情」がまず存在していて、ヤンキーとオタクの違いはその「愛情」の後にある現象で、優先順位を内側に残したものに付けるか外側に捨てたものに付けるかの表象的な所作が目に付いているだけだと思うので、二元論を使ってプロっぽく比較しない今の感じのゆるオタブログでいいんじゃないんでしょうか。
これもいつも通りの海燕さんの記事で、私はなんの違和感も感じなかったです。
通常運転、いつも楽しく読ませて頂いています。