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K2ndさん のコメント

"メビウスの輪のような円環構造"

今回のように価値観がぐるりと回って一周するのにふさわしいとてもよい表現だと思います。これまで岩崎さんが多用していた「矛盾」という表現は、具体的に論理矛盾を起こすような矛や盾に該当する対象がない場合は、こういった別の表現をされたほうが良いと思うし、なによりご本人にとってもさらなる深い理解にもつながるであろうと思われます。

毎度2000文字前後ながら以前より踏み込んだ内容でとてもよかったと思うのですが、この記事の内容を踏まえてちょっと気になったのは、岩崎さんの作品の「もしドラ」の最後の部員のセリフです。(私もなるべく2000文字以内でまとめてみようw)


【もしドラより(P.266)】※ネタバレ注意
>すると正義は、しばらく考えた後、こう言った。
>「あなたは、どんな野球をしてもらいたいですか?」
>正義は、インタビュアーに向かってそう言った。
>それで、「え?」と面食らったような顔になった彼女に対し、正義は続けて言った。
>「ぼくたちは、それを聞きたいのです。ぼくたちは、それをマーケティングしたいのです。なぜなら、ぼくたちは、みんながしてもらいたいと思うような野球がしたいからです。ぼくたちは顧客からスタートしたいのです。顧客が価値ありとし、必要とし、求めているものから野球をしたいのです」
>そう言うと、みなみの方を振り返り、ニヤッと微笑んでみせたのだった。


私は「もしドラ」と「エースの系譜」という岩崎作品を購読し(後者は開始数ページで挫折してそれ以降読んでいないのですが)、「もしドラ」の方は最初から最後まで一気に面白く読み終えた作品です。でも、どうしてもこの最後のセリフだけは違和感が物凄くあって、未だに「もしドラ」を読み終えた感じがしていません。

歴史として野球の起源を古代まで遡ると、動物を狩るための道具として野球ボールくらいの石を使って(投げて)狩りをしていたというあたりから、中世フランスでの「ラ・シュール」→イギリスでの「ストリート・フットボール」→「ラウンダーズ」→「タウンボール」というような経緯らしいです。

先日コメント欄でオススメした「ココロコネクト」というラノベ作品でも同じような指摘を稲葉というヒロインが太一という主人公(自己犠牲野郎w)に言い放っていましたが、私が感じる違和感をおおまかに論理的に整理すると、地球上の全人類が自分のためではなくみんな(顧客)のために生きようと言い出しはじめたら、人類の欲望や夢までもが他力本願となり、社会生活以前に人間という生命がまともに機能しなくなるのではないかという懸念です。


【ココロコネクト ユメランダムより(p148)】※ネタバレ注意
>「この世の全員が『誰か』のために生きたとする。誰かは誰かのために、その誰かはまた別の誰かのために、そいつはまた別の誰かのために…。それが輪になれば、誰も目的を持たないことになる。誰かのために……、と思う人間しかいないのだから」
>『誰かのために』『みんなのために』、それは間違いのない美徳のはず。なのに稲葉は、「そんな世界が行き着く果ては、緩慢たる衰退と死だ」
>徹底的に否定する。
>太一は拒否反応を覚えた。稲葉の論を認めたくない。しかしそこに筋がとっているのもひとつの事実でー。


私はそれほどまでに野球好きではないのですが、そもそも野球というスポーツは顧客(第三者)のために生まれたものなのでしょうか?「野球に関わった人が幸福を感じるような野球がしたい」というゴールではなく??
No.6
137ヶ月前
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ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。