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>>5
ありがとうございます。ブロマガに入会された経緯は、とても参考になります。
そして引いていただいたぼくのTwitterでの発言は、世間一般の考えには逆行するものです。世間一般は対話が大事だという。しかし「対話が大事だ」という人が対話によって成果を上げていたのを、ぼくは見た試しがありません。そういうお為ごかしをいうやつは、たいてい表と裏を使い分け、他人にも自分にも嘘をついて、結局ものごとをうやむやにして、問題はおこさないかもしれないが成果もあげない。事態を1ミリたりとも前進させないのです。
そういう問題を起こさないグータラ蟻も巣の中に2割くらいは必要かと思いますが、ぼくは働き蟻ですし、ぼくが話しかけているのも働き蟻だといういうことです。ここは働き蟻のコミュニティです。
>>6
コメントありがとうございます。
「誰かのために」という視点の中に「自分という誰か」が抜けています。
自分は「他者」なのです。他人も「他者」。自分にとって自分と他人は並列な存在なのです。
社会を「一個の生物」、人間一人一人を「細胞」だと認識するような感覚でしょうか。
「誰か」というのはこの社会という名の「一個の生物」なのです。「一個の生物」の中に「細胞」である自分も含まれています。一個の生物が死んでしまえば自分は死んでしまいます。だから、細胞は一個の生物を生かすためにがんばらなければなりません。それが結局自分を生かすこともつながります。しかしながら、一個の生物を生かすために自分を殺すという局面も存在します。「新陳代謝」がそれに当たります。新しい細胞が誕生したら、古い細胞は静かに退場する必要があるのです。
この時、「誰かのために」「みんなのために」が、緩慢なる死や衰退につながらないという状況が出現します。
「もしドラ」の正義の台詞は、あれはインタビュアーに対する「イヤミ」なのです。
というのも、正義とみなみは高校野球におけるイノベーションとは何かを考える過程で、廃棄するべき高校野球の古い常識、古い考え方、古いやり方は何かということを徹底的に考え抜きました。その過程で、様式的に定まって変化しない報道の仕方にも廃棄すべきところがある——との結論に達したのです。特に、女子アナが聞きがちな「どんな野球をしたいですか?」というのは愚問中の愚問もいいところで、大した答えのバリエーションがあるわけではなく、答えは通り一遍のものになってしまうので、高校野球を古い常識に縛り付けるという悪しき効果があります。
だから、こういう質問をするアナウンサーってダメだよねと、正義とみなみは以前におしゃべりしていたことがあったのです。
ところがそこで、正義が実際にそのインタビューを受けたものだから、みなみは彼が何と答えるか注目したのです。みなみは、正義は真面目だから全うに答えるだろう。しかしながら、程高はイノベーションを果たしたチームなので、真面目に答えても通り一遍の答えにはならないはずだ。そうした思いで、正義の答えを見守ったのです。
ところが、正義はみなみが思う以上にウィット、茶目っ気があった。それで、一丁かましてやろうと思ったのです。それで、ああいう逆質問をした後に、みなみに向かってニヤッと微笑んだのでした。「逆質問」というのは、女の子に「歳、いくつ?」と聞いた時に「いくつに見える?」と聞き返された時のように、たいていはイラッとするものです。そういうイラッとすることを、正義はインタビュアーにあえてしたわけですが、それは紙幅の関係で書けませんでした。
「自分がほしいもの」とは「評価されブランディングされるべきもの」のことであり、「クリエイト」とはその行為により「価値の変化をもたらす」ことであり、「クリエイター」とは「生物(社会)に新陳代謝を起こし、新しい価値を持った細胞(誰か)を生み出し、古い価値を持った細胞(誰か)になる存在」なのでしょうか。
>>11
そうですね。仰るようにクリエイターは社会の新陳代謝を促す存在にたとえられると思います。生み出しもするけれども、それは同時に破壊も伴う。喜びもありますが、同時に責任とある種の悲しみも伴いますね。
あまり先にいきすぎてもだめなんですよね。半歩ぐらい先に進んだユーザーに自分がなれるかどうか。
前回の私の質問コメント(>>6)の回答(>>10)で、正義のセリフの意図が著者である岩崎さんの視点で知ることができたので、それを踏まえてもう一度「もしドラ」を最初から読みなおしてみようと思います。お忙しい中、非常に丁寧なレスを頂きありがとうございました。
このエントリーにも深く関係する「顧客からスタートする」という概念は物凄く重要なファクターだと思うのでもう少し掘り下げさせて下さい。(今回も頑張って1コメントを2000文字前後に纏めてみますw)
私は「顧客からスタートする」というドラッカーの論旨に今でも違和感をずっともっています。よってその概念をトレースしてエンタメとして再構築された「もしドラ」にも違和感が残ったままです。
なぜなら、僕が尊敬するイノベーターであり実業家でもある本田宗一郎(HONDAの創業者)、盛田昭夫(ソニー創業者)、スティーブ・ジョブス(アップル創業者)の誰もが「顧客からスタートする」とは誰ひとりと言ってないですし、実戦してこなかったからです。教壇に立ち続けたドラッカー以外でそれを言い続けた人を知りません。
まだまだ修行中の身でたいしたものは作ってないですが、僕自身においても「顧客からスタート」して作品や製品やサービスを作ったことがありません。
この議論を始める前に、顧客とはそもそもどういう意味として定義されているのか、まずはこのレベルから整理したほうが良いかもしれませんね。
三省堂 大辞林:(商店などの)お得意客。
goo国語辞書:顧客=ひいきにしてくれる客。得意客。
グロービスMBA経営辞書:顧客=潜在的に購買の意思と能力のある人
はてな辞書:顧客=お客様。お金儲けするためになんらかの物事を提供してくれる人または法人。
岩崎さんの思う顧客の定義、ドラッカーの顧客の定義はなんでしょうか?(Q1)
ちなみに私が思う顧客は結果であって、スタートには成り得ないと思います。
岩崎さんの表現だと、誰かという言葉に自分も含まれているという例を前回のコメント(>>10)でされていましたが、私も社会を1つの人体として捉えることがよくあるのでそれはそれでよくわかるのですが、日常的に使う誰かという言葉には普通自分が含まれていませんよね。顧客も同様に。
「誰かこれをやっておいてくれないか」
とある人がいった時、その誰かに発言者(自分自身)は含まれていないでしょう。
「顧客は何を求めているのか」
とメーカーのある人が考えた時、その顧客リストの中に自分は含まれないでしょう。
サービスや製品、もっと平たく言えば人の役に立つものを作る時、本当に顧客※からはじまるのかという素朴な疑問。私の前回のコメント(>>6)でも触れた野球の歴史は、実際に顧客から始まっていたのでしょうか?(Q2)
※Q1の回答次第(顧客の定義によって)で設問の意味が変わる可能性あり
"多くの人は「自分が読みたいと思うもの」を具体的に説明できない。なぜなら、多くの人には、「自分が具体的に説明できないもの」を読みたい――という気持ちがあるからだ。"
これはまったくもってその通りだと思います。異論も違和感もありません。
"ここに、メビウスの輪のような円環構造が出現する。
まず、クリエイターは「ユーザーがほしいと思うもの」を考えなければならない。しかしながら、ユーザーがほしいと思うものをユーザーは知らないし、教えてくれない。だから(中略)
「ユーザーが求めるものを作る」ということは、一周回って「自分がほしいものを作る」ということになるのだった。"
この表現はいくつか違和感があります。ドラッカーの「顧客からスタートする」という概念をベースにしている捉え方だからだとは思うんですけど、「余計なループ」を一周しているような感覚に陥るのがまず一点。もう一点は、言葉の無意識な変換によって答えが微妙にずれてしまっている点です。
一点目については、『7つの習慣』にでてくる「インサイドアウト」という概念がよりシンプルで実際の感覚に近く、顧客からスタートすると出現してしまうメビウスの輪のような余計なループが出てきません。
"インサイドアウトの考え方では、私的成功が公的成功に先に立つ。つまり他人に対して約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守らなければならないということなのだ。"『7つの習慣』より
このように「誰か(顧客)のために」といきなり公にふらずに、まず自分自身のためにと私的な視点からスタートするほうが人間にとってより自然であると思います。本田宗一郎も盛田昭夫もスティーブ・ジョブスも全員例外なく、顧客からではなく私的なところからスタートしています。人間は、他人のことよりも自分のことのほうが「まだ」理解しやすい生き物です。
二点目については、読者が読みたいもの、ユーザーが使いたいものであれば、まずクリエイターが最初の読者に、最初のユーザーになってみるということが最も大切なことであって、自分が「欲しい物」をつくるというのは表現的にミスリードになると思います。
「欲しいもの」というのは、言葉を額面通り受け止めれば「所有欲を満たすもの」です。自分の身の回りを見ていただければわかると思うのですが、欲しいものと使いたいものや読みたいものは実際には結構異なってきます。
私は以前、日本の大手電機メーカーに勤務していたこともあり、よくある日本企業のやらかす誤ちには敏感に反応できます。日本メーカー、特に大手メーカーがよくやってしまう誤ちは、「自分(たち)が使いたいものを作らずに、自分(たち)が作りたいものを作ってしまう」ことです。
岩崎作品でいえば、『エースの系譜(真の処女作)』と『もしドラ(デビュー作)』はそういう視点でまったく別の作品になっているのではないかと思います。
『エースの系譜』はまだ最初の方しか読めていないので間違った認識をしているかもしれませんが、『もしドラ』は「多くの人に読んでもらいたいという視点で書かれた作品」であり、『エースの系譜』は岩崎さん本人が最も「書きたかった作品」ではないでしょうか?
処女作というのは、自分が作りたかった、自分が書きたかったものが非常に出やすい傾向があります。自分が作りたかったもの、書きたかったものというのは、完成した時点でまだユーザーや読者が1人もいない状態の危険なものなのです。
私の知る限りヒットを生み出すクリエイターは、そのとき自分が最も使いたかったもの、最も読みたかったもの、最も見たかったものを世に送り出しいることが多いです。視野が広く、人間の本質と多くのものを吸収しているトップクリエイターたちが日々思う、今見たい、今読みたい、今使いたいと感じるものは、時代が求めているのに世の中にはまだ存在しないものばかりです。
P.S. 今回2000文字をオーバーしたかもしれないですが、岩崎さんはいつもどうやって文字数をカウントされてますか?
「自分がどんな生物の一部なのかを想像できる細胞」「自分が生物の中でどこに位置づけられている細胞か」、生物と細胞が相互依存的に働き合いながら、細胞が独立して活動するイメージが浮かびました。これは自分にとって重要な型の一つになりそうです。
ありがとうございました。
>>14
コメントありがとうございます。
ドラッカーの顧客の定義は「理想ではなく現実」ということです。言い換えれば「自分が作りたいもの=理想」を作るのではなく、「他者が欲しいもの=現実」を作れ、ということです。そこから「スタート」するというのは、自分が作りたいことを認識してそれを避け、他者が欲しいものを認識してそれに寄せろということです。この認識して避けたり寄せたりする行動こそが「スタート」であり、結果は結果でしかありません。
「インサイドアウト」は人間にとって自然かもしれませんが本質ではありません。「インサイドアウト」は、美味しいお菓子があるとダイエット中にもかかわらずつい食べてしまうのと同じくらい「自然」ですが、それで後々後悔したり、苦労したりします。本質は、不自然ではあるがお菓子を我慢して、ダイエットに励むことです。
一周回ることは「余計」ではなく、最もだいじなことです。これは今度記事で書こうと思います。
「エースの系譜」はぼくが書きたかった小説ではなく、読みたかった小説です。
文字数はワードの画面下部に表示されます。
>>13
半歩とよく言われますが、ぼくは一歩くらいが好きです。ちょっと「行き」すぎてるくらいが「粋」なのです。
>>16
"ドラッカーの顧客の定義は「理想ではなく現実」ということです。"
これはドラッカーのどの書物に書かれていたものでしょうか?(Q3)
ドラッカーの「マネジメント」や「もしドラ」を読んでいると、今まであった言葉を違った意味に上書きして持論を展開しているように思えるところがあります。(よくある「なんちゃらセミナー」の講師とかが、目から鱗的な演出をするときによく使う手法)
【『もしドラ』p55より】
>"「ふむふむ、そうなんだ…そう考えると、高校野球に携わるほとんどすべての人を、顧客ということができるよね」"
顧客とは、世間一般にはお客様のことです。
野球を必要としている人、または野球のほうから必要とされている人を、僕や世間一般では顧客という呼び方をしません。どちらかというとドラッカーには顧客という言葉で意味を上書きするのではなく、新しいぴったりな言葉を作りだしてもらって、その独自のマネジメント論を展開して欲しかったです。
"一周回ることは「余計」ではなく、最もだいじなことです。これは今度記事で書こうと思います。"
価値観や構造などをぐるりと一周することは大事なことだと僕も思います。でも一周しなくてもよいところでわざわざ一周することはないと思います。という訳で続きを楽しみにしております。
P.S. ワードはこれまでほとんど使ったことがなかったです。ネットで文字数をカウントするサイトがあったので前回のコメントを計測してみたら2837文字もありました。あれでも相当に削ってはいたんですけどね。2000文字で語るというのは思ったより難しいことがわかりました。自分もブロマガをやってみようかな…