tokunさん のコメント
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『一期一縁』より
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一九五六年10月、現在昭和記念公園がある当時の北多摩郡砂川町に私はいた。
戦前の陸軍飛行場を接収した米軍立川基地の拡張に反対した「砂川闘争」だった。当時の宮崎町長を始め、砂川町の住民たちがこぞって反対し、安保条約に基ずく土地収用特別法による収用手続きのための測量に対し、体を張った闘争だった。
当初、砂川のお母さんや娘さんたちが、反対運動を展開し、デモを行い、座り込みで抵抗したが、すぐ警察機動隊に駆逐された。基地拡張に共鳴する労働組合や各種団体が加わったが、実際測量が始まると。それらの努力は雲散霧消して抵抗は微弱なものとなった。
砂川の婦人たちの間か「学生さんに応援してもらうことはできないものか」という声があがった。
そして、私に白羽の矢が立ち、学生達の総指揮官として砂川闘
・母親と原発実験に反対運動。
11歳でボコボコにされた凄まじい体験をつづったブログが話題に
http://www.cinematoday.jp/page/N0031326
・今だからみんなで考えたいこと。 いしだ壱成
http://ameblo.jp/isseiishida/entry-10819818986.html
ブログの内容を一部紹介します。
そうか、もう死ぬのか、とも思った。ただ、悲しかった。
その瞬間、誰かに突き飛ばされて地面に叩きつけられた。
やはり、武力による衝突が始まったのだ。
急いで起き上がるが、身体の小さい僕は圧倒的に非力だった。
あたりはカオス状態だった。
今度は機動隊員の膝蹴りを喰らった。
また冷たいアスファルトの地面に顔面から叩きつけられた。
顔を上げると、子供になんてことするんだ!!と僕を助けようと手を伸ばして叫んでいる西荻窪で無農薬野菜の八百屋を営む親(一括してそう呼びたいと思う、僕には沢山の親がいると思っている)がいた。一瞬だが、知った顔を見つけて安心した。
その矢先、機動隊の警棒が彼に叩きつけられ、彼は苦痛に顔を歪めてその場に倒れ込んだ。
あんなに優しい笑顔しか見たことのなかった人間が見知らぬ人間に殴られて、苦痛に顔を歪めている。
全部がスローモーションだった。
その瞬間、今度は自分が警棒で右肩あたりを殴られてまた倒れた。
このくそがきが!!
と聞こえた。地面に丸くなって防御体制に入っていた僕の横腹を何人かの隊員に蹴られた。息が出来なかった。そうか、僕はくそがきなのか。そんなこと、初めて言われた。
安全靴のつま先の鉄板があんなに重くて威力のあるものだとは思わなかった。左頬に鉄の冷たさを感じた。後頭部を厚いブーツの底で踏んずけられた。何人の隊員に踏みつけられただろう。
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