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KD69さん のコメント

もし自分に子供が出来たと仮定して考えて欲しい。息子が学校でイジメを受け自殺した、娘が強姦に会った。これらの事が自分の子供に起きたらあなたは犯人だけを責めるだろうか?そんな人間を育てた両親をも怨むのが自然であり、寧ろ犯罪者を出した家系の人間は同罪とも言える。
昔で言う「お家取り潰し」これに当たると思うが、そうではないのだろうか?アメリカなんて言う最近できた国家と日本では土壌が全く違うため、アメリカ人の言うことを全く理解が出来ないので、誰か説明して欲しいものだ。
No.15
149ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 犯罪はいつも加害者と被害者を生む。それが殺人事件である場合、被害者は既に死亡しているわけだから、加害者と被害者遺族にスポットライトがあたることになる。しかし、そこにもうひとつ、その犯罪の犠牲者ともいうべき人々が存在する。それが加害者家族である。  かれらはマスコミの執拗な追求を受け、ネットで個人情報を晒されて攻撃され、いやおうなく生活を崩壊させていくことになる。鈴木伸元『加害者家族』はそんな加害者家族に光をあてためずらしいルポルタージュだ。  この一冊から浮かび上がってくる加害者家族の姿は、悲惨というひとことに尽きる。なぜなら、加害者そのひとが刑務所の中で、ある意味では「保護」されるのに対し、加害者家族は一切の保護を受けることなく「世間」の攻撃に晒されるからである。  著者は冒頭である殺人事件の加害者の妻のことを取り上げているが、彼女はまずマスコミの殺到を受けて家を飛び出さざるをえなくなり、だれにも助けを求めることもできないまま、ひたすらに流転の生活を送る。  金銭的にも困窮し、たったひとりの息子を支えにしてかろうじて自殺を思いとどまる。しかし、この息子に父親が殺人者であるという事実を伝えることはできない……。  ひとつの事件が被害者家族のみならず加害者家族が追い詰められていくという現実があるのだ。むろん、加害者家族に対して「世間」の見る目は冷たい。そしてその世間の圧力によって加害者家族が煉獄に追いやられる展開を、著者はいくつも描き出していく。  たとえば幼女連続殺人事件で日本中に知られた宮崎勤の父親は事件後、自殺している。これを無責任と非難する向きもあるようだが、ひとりの人間を死にまで追いやったものが何であるかを考えることなく、かれの「責任回避」だけを問題視することは間違えているように思われる。  なぜ、この父親は死ななければならなかったのか。それは加害者家族になってしまった苦悩、というだけでは説明がつかない。世間による苛烈なバッシングがなければ、かれは死なずに済んだかもしれないのだ。  その世間の象徴ともいえるのが、インターネットの「言論」である。何か印象的な事件が起こると、ネットではあっというまに単純な感情論が沸騰する。そして加害者当人はもちろん、加害者家族もその「制裁」の標的となる。  この場合、ほんとうにその人物が犯人なのか、また加害者家族に対し事件の責任をどこまで問うことができるのか、というようなことはほとんど問題にならない。ネットの言論はどこまでも放埒で無責任だ。  かれらは社会正義の名のもとに激しい怒りと憎しみをむき出しにして、加害者家族やその関係者(と、思われる人物)の写真や個人情報を晒し、攻撃する。  たしかにその背景にあるものはある種の正義感ではあるだろう。しかし、それは西洋的なジャスティスとはあまりに異なっている。結局、どこまでも「ムラの秩序」を乱すものに対する反感を超えるものではありえないのだ。  その証拠に加害者家族は「態度の悪さ」だの「言葉の軽薄さ」だの、あらゆる理由をつけられて誹謗中傷を受ける。かれらにとって、本当に加害者家族に責任があるのか否かなど、どうでもいいのだとしかいいようがない。  普段は「マスゴミ」を嫌悪してやまらないネットの住人たちは、しかし、マスコミから流れる情報の真偽を問うことを決してしない。加害者の「罪」に対する「罰」として己の攻撃欲を正当化し、ひたすら制裁を続けようとする。インターネットの、そして日本的「世間」の最も醜悪な姿がそこにある。  それでも、永劫の哀しみと苦しみのなかに立ち尽くす被害者家族に比べれば加害者家族の苦境など物の数ではない、ということもできるであろう。しかし、そもそもなぜ被害者家族と加害者家族を比較して加害者家族攻撃を正当化しなければならないのかわからない。  被害者家族が苦しんでいるとすれば、少しでもそれを救済する方法を考えるべきであろう。被害者家族が苦しんでいるのだから加害者家族も苦しむべきだ、という発想は倒錯しているとしかいいようがない。この社会はたしかにどこかが狂っている。  とはいえ、それはどこの国でも同じことで、特に日本特有の現象とはいえない、と思われるだろうか。そうではないのだ。実はアメリカなどでは全く状況が違うらしいのである。  1998年にアーカンソー州の高校で銃乱射事件が起こった時、事件の重大性を鑑みてマスコミは加害者家族の個人情報を公開した。その結果、加害者家族のもとには無数の手紙が寄せられることとなった。ここまでは日本と同じ。しかし、その手紙の内容が決定的に違う。何とそれらはいずれも非難ではなく激励の内容だったというのだ。  「いまあなたの息子さんは一番大切なときなのだから、頻繁に面会に行ってあげてね」「その子のケアに気を取られすぎて、つらい思いをしている兄弟への目配りが手薄にならないように」「日曜の境界に集まって、村中であなたたち家族の為に祈っています」等々。  べつだん、アメリカが理想社会だとは思わない。しかし、この人間に対する態度は、日本人とあまりに違っているというしかない。望まずして加害者家族という立場に立たされることになったひとに対する、この絶対的な意識の差。  日本はムラ社会だから日本人は世間や空気に流されやすい、とよくいわれる。それは事実だとは思う。しかし、最終的にネットで加害者家族を攻撃することを選択しているのは、キーボードで誹謗中傷を打ち込んでいるのは、世間や空気といった抽象的存在ではなく、ひとりひとりの人間である。  ひとりひとりが、自分の意思で糾弾と制裁を決断しているはずなのだ。それなら、その空気に流されず、自分の意思で攻撃の手を止めることもできるはず。それはとてもむずかしいことかもしれない。が、少なくともぼく自身はそのような空気に流されまいと思う。それが、ぼくにとってのプライドのある生き方というものである。
弱いなら弱いままで。
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