弱いなら弱いままで。
犯罪はいつも加害者と被害者を生む。それが殺人事件である場合、被害者は既に死亡しているわけだから、加害者と被害者遺族にスポットライトがあたることになる。しかし、そこにもうひとつ、その犯罪の犠牲者ともいうべき人々が存在する。それが加害者家族である。
かれらはマスコミの執拗な追求を受け、ネットで個人情報を晒されて攻撃され、いやおうなく生活を崩壊させていくことになる。鈴木伸元『加害者家族』はそんな加害者家族に光をあてためずらしいルポルタージュだ。
この一冊から浮かび上がってくる加害者家族の姿は、悲惨というひとことに尽きる。なぜなら、加害者そのひとが刑務所の中で、ある意味では「保護」されるのに対し、加害者家族は一切の保護を受けることなく「世間」の攻撃に晒されるからである。
著者は冒頭である殺人事件の加害者の妻のことを取り上げているが、彼女はまずマスコミの殺到を受けて家を飛び出さざるをえなくなり、だれにも助けを求めることもできないまま、ひたすらに流転の生活を送る。
金銭的にも困窮し、たったひとりの息子を支えにしてかろうじて自殺を思いとどまる。しかし、この息子に父親が殺人者であるという事実を伝えることはできない……。
ひとつの事件が被害者家族のみならず加害者家族が追い詰められていくという現実があるのだ。むろん、加害者家族に対して「世間」の見る目は冷たい。そしてその世間の圧力によって加害者家族が煉獄に追いやられる展開を、著者はいくつも描き出していく。
たとえば幼女連続殺人事件で日本中に知られた宮崎勤の父親は事件後、自殺している。これを無責任と非難する向きもあるようだが、ひとりの人間を死にまで追いやったものが何であるかを考えることなく、かれの「責任回避」だけを問題視することは間違えているように思われる。
なぜ、この父親は死ななければならなかったのか。それは加害者家族になってしまった苦悩、というだけでは説明がつかない。世間による苛烈なバッシングがなければ、かれは死なずに済んだかもしれないのだ。
その世間の象徴ともいえるのが、インターネットの「言論」である。何か印象的な事件が起こると、ネットではあっというまに単純な感情論が沸騰する。そして加害者当人はもちろん、加害者家族もその「制裁」の標的となる。
この場合、ほんとうにその人物が犯人なのか、また加害者家族に対し事件の責任をどこまで問うことができるのか、というようなことはほとんど問題にならない。ネットの言論はどこまでも放埒で無責任だ。
かれらは社会正義の名のもとに激しい怒りと憎しみをむき出しにして、加害者家族やその関係者(と、思われる人物)の写真や個人情報を晒し、攻撃する。
たしかにその背景にあるものはある種の正義感ではあるだろう。しかし、それは西洋的なジャスティスとはあまりに異なっている。結局、どこまでも「ムラの秩序」を乱すものに対する反感を超えるものではありえないのだ。
その証拠に加害者家族は「態度の悪さ」だの「言葉の軽薄さ」だの、あらゆる理由をつけられて誹謗中傷を受ける。かれらにとって、本当に加害者家族に責任があるのか否かなど、どうでもいいのだとしかいいようがない。
普段は「マスゴミ」を嫌悪してやまらないネットの住人たちは、しかし、マスコミから流れる情報の真偽を問うことを決してしない。加害者の「罪」に対する「罰」として己の攻撃欲を正当化し、ひたすら制裁を続けようとする。インターネットの、そして日本的「世間」の最も醜悪な姿がそこにある。
それでも、永劫の哀しみと苦しみのなかに立ち尽くす被害者家族に比べれば加害者家族の苦境など物の数ではない、ということもできるであろう。しかし、そもそもなぜ被害者家族と加害者家族を比較して加害者家族攻撃を正当化しなければならないのかわからない。
被害者家族が苦しんでいるとすれば、少しでもそれを救済する方法を考えるべきであろう。被害者家族が苦しんでいるのだから加害者家族も苦しむべきだ、という発想は倒錯しているとしかいいようがない。この社会はたしかにどこかが狂っている。
とはいえ、それはどこの国でも同じことで、特に日本特有の現象とはいえない、と思われるだろうか。そうではないのだ。実はアメリカなどでは全く状況が違うらしいのである。
1998年にアーカンソー州の高校で銃乱射事件が起こった時、事件の重大性を鑑みてマスコミは加害者家族の個人情報を公開した。その結果、加害者家族のもとには無数の手紙が寄せられることとなった。ここまでは日本と同じ。しかし、その手紙の内容が決定的に違う。何とそれらはいずれも非難ではなく激励の内容だったというのだ。
「いまあなたの息子さんは一番大切なときなのだから、頻繁に面会に行ってあげてね」「その子のケアに気を取られすぎて、つらい思いをしている兄弟への目配りが手薄にならないように」「日曜の境界に集まって、村中であなたたち家族の為に祈っています」等々。
べつだん、アメリカが理想社会だとは思わない。しかし、この人間に対する態度は、日本人とあまりに違っているというしかない。望まずして加害者家族という立場に立たされることになったひとに対する、この絶対的な意識の差。
日本はムラ社会だから日本人は世間や空気に流されやすい、とよくいわれる。それは事実だとは思う。しかし、最終的にネットで加害者家族を攻撃することを選択しているのは、キーボードで誹謗中傷を打ち込んでいるのは、世間や空気といった抽象的存在ではなく、ひとりひとりの人間である。
ひとりひとりが、自分の意思で糾弾と制裁を決断しているはずなのだ。それなら、その空気に流されず、自分の意思で攻撃の手を止めることもできるはず。それはとてもむずかしいことかもしれない。が、少なくともぼく自身はそのような空気に流されまいと思う。それが、ぼくにとってのプライドのある生き方というものである。
コメント
コメントを書く>>220
お前みたいなのが本当の馬鹿っていうんだよ
犯罪者を育てた親が責任を追及されるのは当然。
みんなの周りにはそんなに犯罪者がいるのか?
俺の親族に犯罪者なんかいない。
普通はそんな奴出てこない。
新天地でこっそり生きようとする者にまで執拗に噛みつくのはやり過ぎじゃないかな。
しかも被害者やその遺族ならまだしも、面白半分の第三者が噛みつくのはなぁ。
あとこの問題に限らず、どうもネットで気に入らない奴をバッシングしてる奴は「自分がそいつらの立場だったら、そいつらの子に生まれたら」という考えができてない気がするなぁ
>>90
ただの批判なら良いけど、今のネットでは個人情報晒しや現実では家にまで押しかけて罵詈雑言。これが正しいと?記事に批判的な奴は行き過ぎた行為が横行してることは丸無視だからなぁ。批判と中傷の違いくらい理解しろよ能無しが。
>>224
まさにその通りだと思うよ。
結局は憂さ晴らしの為に叩いてるだけ。
最近はネットでの過激なバッシングを批判した人がバッシングの対象になる世の中だからね。子供を躾の為に5分間置き去りにして行方不明になった事件でも、根拠もなく親が殺したとバッシングしておいて、子供が無事に見つかったらダンマリ、謝りもしない。ネット民は親の責任がどうのとか言う前に自分の発言に責任持てよと言いたいな
ネット上で叩くのはいかがなものかと思うが、加害者の家族が冷遇されてしまうのは仕方ない。
だって、加害者でも被害者でもないその家族でもない一般の人からみれば、そうした人から距離を取りたいのは必然ではないだろうか?
加害者家族が転居した先でも加害者家族だとわかると冷遇され差別的扱いをうけるのは、社会がそうした人をパージしようとしていると言うよりも距離をとって自分の生活に関わってほしくないという防衛本能。
だから、加害者家族がつらい目にあるのは仕方ない事ではないかと思う。
そして、そうした加害者家族が受ける冷遇も含めて、加害者自身が負うべき罪なんだよ。
事件を起こして、人を殺したり損害を与えると言う事はそれだけきつい罪を負うということで、犯罪を犯すことで加害者本人が罪を償うと言う事は、家族にもつらい思いをさせるという実態を受け入れるということ。
責任論やバッシングではなく、それが罪を償うと言う事の一環だと思います。
迫害されている加害者の身内がまともならばこの意見に賛同も致しますが明らかに一族揃ってロクでも無い輩もいるからこの問題が未だに存在するのです。
>>222
>みんなの周りにはそんなに犯罪者がいるのか?
ご自身の周囲をよく観察されることをお勧めします。
複雑な家庭環境で育っているけど、罪を犯さずに生きている人がどれほど多いか気付くことでしょう。
結局、本人次第なんですよ。
激励しろとは思わんが、加害者家族が無関係とも思いません。だって、育てた環境ってのは、一番重要なことだから。しかし、それを誹謗中傷するってのも、更にまた違う。被害者でも被害者家族でもないのがしゃしゃり出て来る時点でおかしいでしょ。
加害者の家族を誹謗中傷したり嫌がらせするのは、バカげている。
事件を起こした犯人は、本人だけだからね まじめに生きてる人を 殺人犯の仲間よばわりするのは変じゃないか?
加害者家族が、事件を起こした身内を ウソまでついて無罪だとか、かばったりした場合は、批判してもいいと、思うけどね。皆、物事を論理的に考えて行動したほうがいい そうしないと、日本は監視社会で住みづらくなるよ。