菊地成孔さん のコメント
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小鳥国での出張が終わり、一ヶ月ぶりで帰ってきた。2次元の強さはなかなかなもので、本当にある小島に(僕はニューカレドニア以外、「小島」に行った事はなく、銚子市というのは事実上は「離れ小島」なのだが、旅行先ではない)旅行に行って、帰ってきた感じがする。今は荷を解いてホッとしている。世界には春が来た。
花粉症はもう、笑うぐらいに酷いのだが、逆に言えば、笑っていれば良いので、まだしばらく同じ薬でゆこうと思う。授業中に「テンションという言葉の意味は、元々高所と緊張を漠然と併せ、、、へ、、、、へ、、、、、ヘ、、、、、、、、、、ヘーキシ!!失礼、漠然と併ヘーキシ!ヘーキシ!ヘーキシ!!ヘーキシ!!ヘーキシ!!、、、、、併せた言葉ですが、大衆音楽理論に於いては、高低は関係なく、例えば2度でも9度でも、ベースよりも下でない限りは全て9ヘーキシ!!ヘーキシ!!ヘーキシ!!!、、、、ヘー、、、、、、へー、、、、、、、、、、、へー、、、、、、、、、、、へー、、、、、、大丈夫、、、へー、、、、、へー、、、、、、、、ヘーキシ!!ヘーキシ!!ヘーキシ!!ヘーキシ!!アッフンヘーキシ!!ヘーキシヘーキシ!!ヘーキシ!!ヘーキシ!!ヘーキシ!!ヘーキシ!!あははははははははははは」という事が起きても、生徒も自分も笑っている(花粉症であることを知られているので)。
既に、観光化されたパリの教会では、いわゆる懺悔の部屋が、早くも90年代半ばから、大きなガラス張りのカウンセリングルームになっていました。僕が8〜90年代初頭にはあの部屋は現役で、「こんな善良そうなお婆さんが何の罪で肩を震わせているんだ?」と思っていました。パリはご存知の通り、フロイドアカデミーの本拠地があり、北米と並ぶ精神分析のメッカだとはいえ、本当に精神科の内装と全く同じになったんです。
オムスと一緒にパリでライブをやった時、オムスは初めての海外旅行で、目を輝かせて教会の内部をデジタルカメラで撮影しまくり、マリア像だけでSDカードのメモリーをいっぱいにしていました。「これを、帰ったらマリア(言わずと知れた、あの、ラッパーのマリアさんです)に見せるんだ」と笑いながら。
その時、「菊地さん、あの診療室みたいなの、何ですか?」と言いました。僕は「あれは昔、懺悔するところだ、ちょっと前まではちっちゃい劇場みたいなのがあったんだよ」と言うと、オムスは黙っていました。帰りに寄ったカフェで「オムスもダン(Dyy-PRIDE)も、本好きだよな」と言うと「まあ、そうっすね、、、、、更生したい黒人やミックスは、本を読みますよ」と言い、不味い(僕はやめろと言ったんですが笑)観光パスタを食い、クアーズを飲んでました。今度は僕が黙りました。
日本人の大半は、合衆国民(北 / 中 /南全て)と比べて、日常的な殺人に、単に慣れていないと思います。自殺に関しては、合衆国を抜いているかもしれないけれども。僕が概ねこう言う感じなのは、親戚一同が全員、空爆体験者で、そのうちの3〜4%は精神病もしくは身体障害者だったから。ということが大きいと思います。Twitterによる集合的な怨トランプには、「他人事」という、一種の「遠さ」が、安心感として働いていると思います。僕の友人であるスパニッシュアメリカンの音楽家たちは、シンプルな反トランピーではありませんでした。そちらの国境線にフェンスを張ったものの、それを問題視しているアミーゴはいませんでした。これは「近さ」による不安感によるものでしょう。
シカゴを「シャイカゴ」と発音し、そこから「シャイラク」(=銃による死亡者数が、イラクのそれより統計的に上回ったから)と呼ばれて幾星霜、前にも書きましたが、今、誰に聞いても「ホンジュラスが最低だ」と言いましたが、貴国が他殺による死亡者数において上回ったと聞き、しばし沈黙しました。ゴタイ、シエラ、アラニッツ、等々、中米で野球を志す少年にはルーベンが多かったのでしょうか、「チノ」は、てっきりチャイナのことだと思っていました(チノパンの由来)。今、マスメディアは「ペルーは隠れ美食の国」とか言って、都内にある(ほとんど大久保近辺)ペルー料理店を紹介しています。
COVIDが、欧州と合衆国で猛威を振るっているのには、様々なファクターがあると思いますが、少なくともシステム化された教会が、あらゆる回答を放棄したのであれば(ブラジルではとうとう美術も葬られようとしていますが)、何によって市民が救済されるか、よりも、救済はないと信じている人々の心性をベースに、救済のシステムを組織化するしかなく、音楽とスポーツはそのギリギリの手綱でしょう。
僕がベオグラードに演奏に行った時、そこはまだユーゴで、公園にはまだコソボ紛争の傷跡である、爆弾の爆発跡などもあったものの、市民はその大きな穴に座って、アイスクリームを食べたりしていました。僕は数名のユーゴ人の女の子と友達になり、オフ日にはデートをし、彼女は公園の爆撃跡を指して「ちょっと前までは大変だったの。もっと前は<普通の国>だったみたいだけどね」と言って、帰国日にキスしたりした。しかし、僕の人生はギリギリで空爆から逃れており、帰国してすぐに、NATOによるベオグラードの空爆があり、彼女のアドレスにメールしてもしても、レスが戻ってくることはありませんでした。空爆は1999年の3月です。僕はDCPRG(当時)を結成し、リハーサルに入っていました。
解散はまだ早い。と言われます。合衆国への読みは浅い、とも。しかし、僕はニューヨークでの経験と、ラティーノたちとの交流によって、スペイン語であるペペトルメントアスカラールに、DCPRGの初期衝動を熟成して受胎させるつもりです。命の安全と、精神の健康を祈っております。素晴らしい混血的な造語は、何かに使わせていただきます。
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