田畑 佑樹さん のコメント
このコメントは以下の記事についています
まあ、ホモソと言えばホモソだ。文句がある奴は好きなだけ言えばいい。男友達が集まるというのは本当に気分が良い。2度言うが、本当に気分がいいものだ。
女性が嫌いな訳がないし、セクシュアル・マイノリティにはそれ相応の理解があるつもりだ。その上で敢えて敢えて言うが、「まあ、女にはわからないよな」という特別な気分、その領域が自分の中にあることは、その領域が遠からず絶滅することは(「絶滅させられる」わけではない。ということでさえ)理解した上で、誇りに思うし、年齢を鑑みるに、絶滅種として大切にしないとな。とすら思う。
僕はまあ、言ってしまえば便利だからビッグカンパニーもマスメディアも使う。僕は彼らにとっては、実のところ一番タチの悪い厄介者で、極めて扱いづらいので、最後にはクビは切られてしまう。にしてもだ。
なので、タフビーツやブラックスモーカーといった、悪い友達でいてくれる、小さいが真にイルでインテリジェントなレーベルとシンジケート関係である事を、僕は誇りに思うし、かなり実直に言えば、大変な安堵感がある。現代ほど「友達」という言葉を軽んじている社会はない。
パードン木村さんは、ペンギン音楽大学が創設される前、僕がマンツーマンで音楽理論を教えていた時期の、最初期の生徒である。木村さんは一番最初、ヤン富田の弟子筋であるというプロフィールで現れた。
ジョンの貴重な後日談を含むご返信をいただきありがとうございます。
あらゆる創作チームの盟友関係、その破綻の直接原因に「片方の死」が存ずる場合、残された方の服喪のしかたにはあまりに多くのバリエーションが考えられ、それはもし「アーティストたちの喪の仕事」という研究分野があったとしても満足ゆく出来の成果は22世紀まで待たなければならないと思わされるほどですが、リーの喪をひとまず明かしたジョンの仕事ぶりが「20世紀的なバビロン業界謳歌=かつての盟友と共に獲得した技術と名声への開き直り」ではなく「単に自分が立っている仕事場での専念」を意味していたとすれば、自滅を遠ざけて加齢と成熟を重ねてゆくアーティストの身振りとして理想的だと思わされます。
記事内でウェイン・ショーターの名言を引いておられましたが、 Amazon Prime にショーターの3章仕立てドキュメンタリーが上がっており、内容も全編素晴らしかったのですが、最も胸を打たれたのは彼とハービー・ハンコックとの友情で、それもショーターが近親者の不幸を含む最も辛い時期をハンコックと共に過ごしたことでした。私の信教は彼らの属するそれとは全く違いますが、あのような関係が自然に成り立ちうるならそれは無条件に素晴らしいと思ったものです。
友情とはもしかすると、同じ学校のクラス等の偶然がもたらすものというよりは、先天的・後天的問わず獲得された「自明として信じるもの」を基礎とするのかもしれない、と今では思っています。菊地さんとキラー&パードンをはじめとする出演者さんたちも、電気音楽を介して「自明として信じるもの」を共有しておられたのでしょう。そのようにして素晴らしい夜が無限に存在してきたし・これからも存在することをやはり自明に信じること、これも際限無く人間が死に・生まれる世界での服喪と再起のかたちなのかもしれません。
(ところで、木村さんの「吐きながら乗っていいんですよ。海なんだから笑」という屈託ないお言葉が、銚子の料理屋の息子としてお生まれになった菊地さんのバックグラウンドへの参照無しに発されていたのだとしたら、凄いことですね。菊地さんにとって「船・酔い・吐瀉物」の3要素がどのような光景を意味していたかはファンの身からは具体的に察せられるのですが、木村さんのお言葉は菊地さんの個人史内における「船・酔い・吐瀉物」にすら新しい意味を与えている気がします。こういう何気ない談話の中にいきなり訪れる雷撃のような瞬間は、やはりダチどうしの関係だけが持ちうるものですね。)
そして、ボランとボウイが同じステージに立つときの奇妙な様子については、私としてはいわく言い難いものを感じていただけに、菊地さんによる肉体的分析を受けて気付かされたことが多くありました。というか菊地さんがご指定の映像と同じものを私が見つけられたかどうかは疑わしいのですが、ボウイは単純にストラトキャスターを弾き慣れていないように見え、なるほど “ニコリともしないで” 映っていました(笑・そして自分の顔がアップで映される一方でマークが画面外にアウトし、映されていない共演者の姿を見て笑い出す瞬間に映像が切れるという)。
純粋に、ボウイとボランってこんな身長差があった(少なくともそのように見える映りだった)っけ、と今更のように新鮮な印象を受けました。自分の世代ではグラムロックルネサンスとして Placebo が外せない存在だったので、ボウイがブライアン・モルコ(オープンリーバイセクシュアルで、出身国はベルギーで、母方がスコットランド人で、なおかつ英国グラムロックの系譜でアイコン視されている。という、21世紀先取り型の存在)と一緒に『20th Century Boy』を演奏しているアワード映像を何度も繰り返し観ていた時期があったのですが、いま観直してみるとボウイはほとんど笑っていないようでした。モルコと背中合わせでギターを弾いているときはもっとニコニコしているように自分の記憶では補正されていたようです(ちなみに Google の情報を信用するわけではありませんが、モルコの身長はボランより3cmだけ高い168cmとのこと)。この表情のカタさが、「かつて満足に共演できないまま終わった天才の楽曲を別の世代の天才と一緒にパフォーマンスすること」に纏わる一種の厳粛さのあらわれなのか、それとも全く別のものか、については敢えて答を出さずに眠ろうと思います。
(ちなみに、「ここにもう居ない、かつて自分が目標にして・憧れてさえいたあの人」をめぐる3者関係は、かつて菊地さんの公式サイトで引用されていたファンメールの、マックイーンとスリマンとミュグレーの3者に関する「不在」の分析に触発されています。今回の記事をきっかけにあのファンの方の文も読み直しましたが、本当に何度読んでも卓見としか言いようがない分析です。)
Post