まあ、ホモソと言えばホモソだ。文句がある奴は好きなだけ言えばいい。男友達が集まるというのは本当に気分が良い。2度言うが、本当に気分がいいものだ。
女性が嫌いな訳がないし、セクシュアル・マイノリティにはそれ相応の理解があるつもりだ。その上で敢えて敢えて言うが、「まあ、女にはわからないよな」という特別な気分、その領域が自分の中にあることは、その領域が遠からず絶滅することは(「絶滅させられる」わけではない。ということでさえ)理解した上で、誇りに思うし、年齢を鑑みるに、絶滅種として大切にしないとな。とすら思う。
僕はまあ、言ってしまえば便利だからビッグカンパニーもマスメディアも使う。僕は彼らにとっては、実のところ一番タチの悪い厄介者で、極めて扱いづらいので、最後にはクビは切られてしまう。にしてもだ。
なので、タフビーツやブラックスモーカーといった、悪い友達でいてくれる、小さいが真にイルでインテリジェントなレーベルとシンジケート関係である事を、僕は誇りに思うし、かなり実直に言えば、大変な安堵感がある。現代ほど「友達」という言葉を軽んじている社会はない。
パードン木村さんは、ペンギン音楽大学が創設される前、僕がマンツーマンで音楽理論を教えていた時期の、最初期の生徒である。木村さんは一番最初、ヤン富田の弟子筋であるというプロフィールで現れた。
コメント
コメントを書くk-bombさんやロバートさんが菊地さんとそんな繋がりだとは。パリスヘルトーンも最高でしたが、今回行きたかった!ブラックスモーカーの方達はみな超ヤンチャですよね。わー、最高な人どうしが集まって、やべーしかいえないです。Kさんが広島でDJしたときもやべーでした。
>>2
僕が英国人男性(アレキサンダーは古典的なゲイで、ジョンはストレートでしたが)の友情ーーそれは学閥性とかなり深く結びついていて、明治時代の日本のような感じでしたがーーに触れ、非常に刺激されたのは、あのインタビューの列の中で、ジョンだけがその後も僕にメールをくれていた、ということもなくは無いのですが、アレクサンダーがああいう形で亡くなった後、ジョンがしばらくランウェイミュージック界から身を隠し、しかし喪が明けると、平然とエルメス(かなんかの)ショーで、アレキサンダー・マックィーンの様な音像のDJをしてーー恐らくーー以前よりも高額を取っていたことです。
音楽界も本当に全く同じで、そこには天才と天才でない者がいるだけで、しかしそこに今、流行りの分断はありません。20世紀の一番輝いていた時期のポップミュージック界から、一時的に、人種をはじめとしたあらゆる分断が根絶した状況と構造が、友情という、おそらく人類だけ持つ生物的な深層の感覚も包摂的に共有していたと強く感じています(ご指摘のとおり、性自認ウーマンの方々の中にも友情は起こりうるし、しかしメンズのそれとは共闘関係を形成するしかなく、その中間領域に立つのが、<古典的な>ゲイ、レズビアンのコミューンであることは間違い無いです)僕の年収はこのパーティーの晩、トップだったでしょう。たったこれだけのことが、クソのような緊張感を張り巡らされる場もあるし、そんなものが全く無い時には、全く無いわけで、そこで思いっきり息を吸っても空気の香りしかしない。サーファーやフリーダイヴァーはそれを知っており、現代人がいかに窒息しているか、という事を前提に電気を使っており、それは教養と呼ぶに相応しいものだと思います。木村さんはサーファーで、僕が「あんな事僕には無理ですよ笑」と言ったら「菊地さんなら30分で乗りこなしますよ笑」と言われたので「僕船酔いするんで、吐きますよ笑」と言ったら「吐きながら乗っていいんですよ。海なんだから笑」と言ってました。
ちなみに、というレベルですが、マーク・ボランと一番マイメンだったのはデヴィッド・ボウイだったと思います。様々なTVショーで2人は絡んでおり(ブッキングどうなってたんだろう?と思うばかりですが)、そこにはとんでもない身長の高低、肌の白さ、目の色、ギターと歌のスキル、ファッションセンスの質に大きな差異があり、1本マイクで歌うとき、デヴィッドは身を屈め、マークは背伸びしないといけないので、非常にキツそうに見えるのですが、そこまで含めて、まるでいちゃついている様にグラムロックのクラシックスをニコリともしないで歌っている姿は、世界中のBLの愛好家にURLを無差別送信したい程です。
>>3
木村さんはとにかく、人類が車を捨て、バイクを捨てるという事をやめない限り、その廃品から手製の車やバイクを作って生きてゆくので、こんなシンプルな人いないと思います笑。一回、「3台捨てたれてたから、それを1台にしました」と言って、ラスタカラーみたいな改造バイクを庭に停めてあった時には普通にびっくりしました笑。
>>4
彼らはみんな本当にヤンチャだし、無茶苦茶なインテリジェンスがあって、それはなんというか、20世紀の学問のガラクタを寄せ集めたような崇高なもので、僕のように実際のアカデミズムの領域にスパイ行為を行なっているようなヤカラからしたら「本当にこいつら笑」しかコメントないんですが、これはディスではなく、サミットには全く無い、アンティークのようなものです。hip-hopカルチャーが加齢して行く時のモデルとして、ジーブラがああいう風になっている、Awitchなんかまだ若いのに、ああいう風になっている。それに全く文句はないんですが、豊かなカルチャーには必ずヘンテコな学者みたいなのがいて、インテリの気狂いジジイみたいなことになります。N/Kの「K」は言うまでもなくイニシアルですが、K-DUBやk-bombのkと同じkだと僕は思っていますが、伝えたことは一度もありません笑。
>>5
ジョンの貴重な後日談を含むご返信をいただきありがとうございます。
あらゆる創作チームの盟友関係、その破綻の直接原因に「片方の死」が存ずる場合、残された方の服喪のしかたにはあまりに多くのバリエーションが考えられ、それはもし「アーティストたちの喪の仕事」という研究分野があったとしても満足ゆく出来の成果は22世紀まで待たなければならないと思わされるほどですが、リーの喪をひとまず明かしたジョンの仕事ぶりが「20世紀的なバビロン業界謳歌=かつての盟友と共に獲得した技術と名声への開き直り」ではなく「単に自分が立っている仕事場での専念」を意味していたとすれば、自滅を遠ざけて加齢と成熟を重ねてゆくアーティストの身振りとして理想的だと思わされます。
記事内でウェイン・ショーターの名言を引いておられましたが、 Amazon Prime にショーターの3章仕立てドキュメンタリーが上がっており、内容も全編素晴らしかったのですが、最も胸を打たれたのは彼とハービー・ハンコックとの友情で、それもショーターが近親者の不幸を含む最も辛い時期をハンコックと共に過ごしたことでした。私の信教は彼らの属するそれとは全く違いますが、あのような関係が自然に成り立ちうるならそれは無条件に素晴らしいと思ったものです。
友情とはもしかすると、同じ学校のクラス等の偶然がもたらすものというよりは、先天的・後天的問わず獲得された「自明として信じるもの」を基礎とするのかもしれない、と今では思っています。菊地さんとキラー&パードンをはじめとする出演者さんたちも、電気音楽を介して「自明として信じるもの」を共有しておられたのでしょう。そのようにして素晴らしい夜が無限に存在してきたし・これからも存在することをやはり自明に信じること、これも際限無く人間が死に・生まれる世界での服喪と再起のかたちなのかもしれません。
(ところで、木村さんの「吐きながら乗っていいんですよ。海なんだから笑」という屈託ないお言葉が、銚子の料理屋の息子としてお生まれになった菊地さんのバックグラウンドへの参照無しに発されていたのだとしたら、凄いことですね。菊地さんにとって「船・酔い・吐瀉物」の3要素がどのような光景を意味していたかはファンの身からは具体的に察せられるのですが、木村さんのお言葉は菊地さんの個人史内における「船・酔い・吐瀉物」にすら新しい意味を与えている気がします。こういう何気ない談話の中にいきなり訪れる雷撃のような瞬間は、やはりダチどうしの関係だけが持ちうるものですね。)
そして、ボランとボウイが同じステージに立つときの奇妙な様子については、私としてはいわく言い難いものを感じていただけに、菊地さんによる肉体的分析を受けて気付かされたことが多くありました。というか菊地さんがご指定の映像と同じものを私が見つけられたかどうかは疑わしいのですが、ボウイは単純にストラトキャスターを弾き慣れていないように見え、なるほど “ニコリともしないで” 映っていました(笑・そして自分の顔がアップで映される一方でマークが画面外にアウトし、映されていない共演者の姿を見て笑い出す瞬間に映像が切れるという)。
純粋に、ボウイとボランってこんな身長差があった(少なくともそのように見える映りだった)っけ、と今更のように新鮮な印象を受けました。自分の世代ではグラムロックルネサンスとして Placebo が外せない存在だったので、ボウイがブライアン・モルコ(オープンリーバイセクシュアルで、出身国はベルギーで、母方がスコットランド人で、なおかつ英国グラムロックの系譜でアイコン視されている。という、21世紀先取り型の存在)と一緒に『20th Century Boy』を演奏しているアワード映像を何度も繰り返し観ていた時期があったのですが、いま観直してみるとボウイはほとんど笑っていないようでした。モルコと背中合わせでギターを弾いているときはもっとニコニコしているように自分の記憶では補正されていたようです(ちなみに Google の情報を信用するわけではありませんが、モルコの身長はボランより3cmだけ高い168cmとのこと)。この表情のカタさが、「かつて満足に共演できないまま終わった天才の楽曲を別の世代の天才と一緒にパフォーマンスすること」に纏わる一種の厳粛さのあらわれなのか、それとも全く別のものか、については敢えて答を出さずに眠ろうと思います。
(ちなみに、「ここにもう居ない、かつて自分が目標にして・憧れてさえいたあの人」をめぐる3者関係は、かつて菊地さんの公式サイトで引用されていたファンメールの、マックイーンとスリマンとミュグレーの3者に関する「不在」の分析に触発されています。今回の記事をきっかけにあのファンの方の文も読み直しましたが、本当に何度読んでも卓見としか言いようがない分析です。)
菊地さん、こんばんは。
今回のブログ、とても暖かくて沁みました。
最近、疎遠になってしまった古い友達と、なんとか関係を修復しようとしているところでした。
友達は大事ですよね。
菊地さんはお嫌いでしょうが、ストーンズのこの曲を久しぶりに思い出しました。
https://www.youtube.com/watch?v=MKLVmBOOqVU
先日、ジョンガリアーノのドキュメンタリーを見てたらアレキサンダーマックイーンの写真が数回出てきてその度に少し泣きそうになりました。40で亡くなられたので写っている姿はどれも若々しくて少年の様でした。
題材となったガリアーノも少年っぽいといえばそうなのですが、見ていてセンチメンタルな感じにはなりませんでした。悪ガキという感じでした。問題発言の後にユダヤ人の格好をして出歩いたりして「この人、大丈夫なのかな」と思いました。ファッションデザイナーに言うのも変ですが。でもガリアーノの作品はどれもよいと思います。マルジェラ時期も好きです。
菊地さんの書いたファッションの本もまた読みたいと思っています。
映画館の予告でアメリカの女子ボート部を描く「ノーヴィス」という作品が流れていました。かねりスパルタな感じの描写で「うわあ、セッションみたいだなあ」と思っていたらセッションの音響監督の初監督作品でした。観に行くべきかはまだ考えています。
>>11
痛風さんこんばんは。
この曲が嫌いなのは僕ではなく、反ホモソーシャルの陣営です(笑・ブラックリストに上がっています)。それが何より証拠には、こないだ終わったアストンマーティンの番組(tfm)の、菊地武夫さんの回で選曲し、オンエアしています笑。
刺青の男。のスタジオセッションの時、ソニー・ロリンズがスタジオに本当に来るとは誰も思ってなかったそうです。まあ、そりゃそうですよね笑。
僕は、呼んだミック・ジュギュアもミック・ジュギュアだし、行ったソニー・ロリンズもソニー・ロリンズだと思うんですが笑、後年、キース・リチャードが「スタジオに行ったら本当にソニー・ロリンズがいてブッ飛んだ」と言っていて笑、どんだけ微笑ましいんだと思いました笑。伝説の類だと思いますが、ここでの「友達」と言うのはソニー・ロリンズの事だ、という説がありますね。
>>13
ガリアーノの、僕も見ました。アレキサンダーは確かにでっかい子供ですし、おっしゃる通り、ガリアーノの服は、実は(「実は」と言わせてしまうのが、ガリアーノのバカ具合なんですが笑)全部良いです。いわゆる「天才」だと思いますね。
マルジェラの時は、バカがちゃんと自制していて笑(自分のメゾンのショーだと、フィナーレで決め顔とかするのがバカ過ぎで笑、あれだけは止めろと、確か、ミウッチャ・プラダに言われていたとか何とかで、だから止めずに決め続けた、というのも大バカ伝説だと思いますよね)、とても良いです。
アレキサンダーとガリアーノは本当に正反対です。ガリアーノの少年性の中には頭のおかしい守銭奴や糞爺が住んでいて、誤解を恐れずにいえば、とても不潔ですね笑。サルバドール・ダリとかに近いです。ジバンシィの頃のアレキサンダーの服は、なんかもう輝いていて、清潔すぎて、目が眩むほどです。
僕は靴まで含めたアレキサンダーのセットアップを持っていて、デザイン上のテーマが、スタッズというより、ラインストーンやスワロフスキみたいな感じなんですが、小さなビーズのドットがラペルと腰巻きと靴全体にびっしりと並んでいます。
技術的にも発想的にも、一番簡単な技法でしょう。しかし何時間見つめても、触っても、全く飽きない。無駄にキラキラもしていない。凄いなあ。清潔だなあ。と思います。
>>14
ご返信ありがとうございます。
失礼いたしました!