「今日の菊地成孔」夏休み特別編 


         <菊地成孔の一週間> 


8月24日(土) 


 ドミューンが山口県にYCAMドミューンという期間限定のピナコテークを持ったそうで、そこでドミューンをやれという事で、大谷君と山口まで飛んだ。

 といっても大谷君とは別便なので羽田までビュロー菊地号で行き、1人で山口宇部空港までフライトしたのだが、1人フライトはかなり久しぶりで、とても楽しくかつ癒される。離陸の時にスカイツリーが見えるのも楽しい。
 

 そもそも台本書きと作曲と寝るとき以外は一人きりという事がもうあんまりない。一人で弁当(空弁)を買って(飛ぶ時はビーフですよ。写真参照)、一人でお茶を買って、フライトアテンダントの人と楽しくおしゃべりをして、ああ楽しいな、さてと今頃どこらへんかなと思ったら着陸態勢に入ってしまった。

 ドミューンのツアーだ、等というとかなり楽しい訳だが、レコーディングの最中に抜け出している形で、録音、編集、ミックス、再作詞、と総ての行程が稼働中のままな上に、レコーディングメンバーと一緒、、、というか、レコーディング自体が大谷君と自分の、、、、というか、そもそもドミューンがあることでジャズドミューンという番組が生じ、ジャズドミュニュスターズが結成された訳なので、一種のルーツバックである。
 

 しかし感覚的には、大谷君とCD製作中に2人でスタジオを抜けるというのは、レコーディング中に晩飯を喰いに行く様な物で、それが著しく遠いというだけである。日本地理に弱く、山口県がどこにあるか解らない。アテンダントの人とは先ずその話で盛り上がった。

 YCAMドミューンに関しては各自調査願いたいが、とにかく宇川君のパトロンやスポンサーを吸い寄せる力は物凄く、こういう物は天賦の才としか言いようがない(大友っちと似ている)、大谷君も自分も、絵に描いた様な徒手空拳体質なので、スポンサーなんか、たまに小さく着いた時などは逆に変なことになったりする(腹を壊すとか、本番中にサックスが壊れるとか)。

 やっている事はここ4年間やって来た事と全く同じだが全然飽きない。大谷君とのコンビ仕事は数多いが、これほど長く、これほど同じ事をやり続けているものはない。そして、これほど「しがみつき」を生んでいない物は無い。これだけハイクオリティの悪ふざけを4年も続けてしがみつきを生まないというのは、やはりマーケットがドミュニュストだからだと思う。


 先日のコメント欄でも若干触れさせて頂き、普段も折に触れて発言している「しがみつき」概念だが、決して絶対悪と言っているのではない。しがみつきは一般的な事である。精神的な行為というより、生理現象にすら近い。なので止めろとは言えない。

 

 ただ、この生理現象は「やられる側はキツい」という構造になっている。こういうのも一般的な事だ。性欲を持つなとは誰が誰に対しても言えない。しかし、一方的に欲情されて普通に喜べる人物は、性別は何であれ奇人だ。街でぱったり優香に出会ったとする。しかも話す機会が出来た。その時「いやあデビュー当時の水着グラヴィア最高っす。またやってください(実際は最近本当にまたやったんだが・笑)またやってください。次に水着グラヴィアやるのはいつですか?あれ最高だったなあ」と本人に言い放つという蛮勇は自分にはない。

 人は原理的にはしがみつかない限り速度を落とせないので、要するに一切に何もしがみつかないというのは人生が最速に成ってしまい恐ろしいわけだ。これが所謂「生き急ぐ」というやつで、自分も大いにしがみついている。幼少期に。(歌舞伎町という)街自体は一方的に欲情されても40年前にしがみつかれても嫌ではあるまい。しかしそれももう止めたが。

 スパンクハッピー、水曜WANTED、スペインの宇宙食は自分がやって来た事の中でしがみつき量産の金銀銅だ。理由は厳密には解らないが、おそらくジャパンクールに触れているからだろう。ジャパンでジャパンクールに触れてしがみつかれる等というのは、いっぱい喰ったから太った、という位にハッキリした因果律だ。夜電波が始まって2年位は「ところで大谷さんが出るのはいつですか?」というメールが来続けたので、丁寧にしっかり殺意を込めて消去し、もうそういう物が来ない様に一生懸命番組を作っては楽しんでいた。

 ここは重要な所なのだが、「殺意」と言っても、メールをくれた人自体に対するものではない(まったく知らない人の存在全体に殺意が抱けるのは完全な病者であろう)。自分が強い殺意を抱くのは、そのしがみつく欲情そのものにである。「罪を憎んで人を憎まず」とう概念が今ほど曖昧になっている時代は無い。

 

 あなたがスタイルの良い若い女性だとする。書店で好きな本を楽しく読んでいたら、はあはあ言いながらじーーーとこっちを見ている見ず知らずの男性に気がついた。うっわ気持ち悪いと思い、移動した。また楽しく立ち読みをしていた。そしたら何と、黙って追尾して来て、また至近距離ではあはあ見つめながらじとーーーーーーっと見つめている。

 あなたは反射的に「死ね」と思うだろう。しかしその殺意は、欲情者の全人格、全存在に向けられた物ではない(前述の通り、それは原理的に出来ない)。見ず知らずの彼の、明確過ぎる欲情、激しく欲しがるその情に、彼女は殺意を抱いているのだ。

 ここで彼女が苦しいのは、殺意を抱く対象が、自分を原材料にして生まれているという事である。ほとんどの精神の病はこの構造、すなわち書店の一角にいる彼と彼女によって生産されている。この生産ラインから外れる事こそが生きる希望である。ストリッパーやAV女優に成って、業務として性欲情を催させ、感動され、感謝され、収入も得る。それでもストリッパーやAV女優も精神を病む時は病む。人類の本屋の一角はなかなか消えない。

 大谷君にタンテに乗せられて回されてパクパク喰われたいと思っている女性も男性も沢山いるだろう。しかし、それを遥かに上回る数の、アニソンや国家やブードゥーのミックスをラジオで聞きたい人々がいるのだ(前述の「水曜WANTED」で行っていた事)。彼等の女性に対する攻撃衝動、彼等の国家に対する壊乱衝動、自己嫌悪屋の浄化、健康的な怒りや興奮、そういった物を、自分と大谷君はかなり欲情させたと思う。

 

 こうした欲情に潰されるのは創作者=積極的誘惑者としては弱者であるし、モチロン書店で女性側に成った事がある人々は、気を許すとつい別の場所で書店の男性に成ってしまう。自分も本当に気をつけている。仕事柄、かなり様々なタレントさんに会うからだ。

 ここ20年ぐらいで、たった一人だけ、ああしまった。やってしまった。と本当に心から後悔している人がいる。仕事の流れ上、仕方が無かった(嘘を言う訳にもいかないし、また、その事を説明した方が現場が進むと判断したのである)とはいえ、防げば防げた筈だ。小泉今日子さんである。

 自分が正直に「テレビをつければいつでもあなたの歌が聴ける頃はどの歌も全部憶えていましたし、雑誌のグラヴィアで自慰行為に及んだ事もあります。しかしワタシは日本映画も日本のテレビドラマもほとんど見ないし、J-POPもほとんど聴かないので、その後のあなたの事は大変失礼ながら全く知りません。昨日ウィキペディアなんかで検索し、大変豊かなお仕事ぶりだと知って驚きました」と言うと、小泉さんは「うふふふ。良いんですよ。全然そんなの」と微笑まれた後、少し目を伏せて、「そういう人、結構多いですから」とニッコリされた。

 うわあしまった。やってしまった!と思う時はいつでも後の祭りである。友人が密接に関わっているので言及に気が引けるが「あまちゃん」での小泉さんの演技は本当に素晴らしいと思う。最初は懺悔する様な気持ちで見ていたが、もうそんな気もないほどである。

 

 「その人の<今>を見つめる」事、愛にもし誠実さを求めるとしたら、上限リミットはこれである。恋人が交通事故で植物人間に成ってしまった。元気だった頃ばかり思い出して毎日泣く事を、深く愛している事と規定する虚構も現実もあるだろうか?植物人間まで出すなよ大袈裟なと言われるかもしれない。その通りである。元気で健康で、自分の事を愛してくれている人との、楽しかった昔の事ばかり思い出すようになったら、それは少なくとも、愛に誠実さを設定した場合、もうほとんど失っている事を意味する。