菊地成孔「料理店の寝椅子」 ソプラノ歌手の林正子さん 3-1(全4回)

 

 「菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール」に、クラシックのソプラノ(一般的には「ソプラノ歌手」と書かれることが多いが、厳密には、クラシック界においては「ソプラノ」には「歌手」であることが含意されるので、単に「ソプラノ」が正しい)を召還する。と決めたのは、実のところ比較的早い時期で、着想だけならば、エピソード0に当たる(ペペの歴史については、5月にリリースされるベスト盤『夜の歴史』に、かなり細密なテキスト&楽曲解説が掲載されるので、ビギナー、マニアどちらの方にもホスピタリティが高いので、どうかご参照のほど)、つまり、ペペを生んだきっかけとなったワタシのソロアルバム『南米のエリザベス・テーラー』にまで遡ります。

 

 『南米の~』のジャケットは、世界3大オペラハウスのひとつ、ブエノスアイレスのコロン劇場のバルコン席で撮影されていますが(実はあそこは撮影禁止なので、まあ、いわゆる「時効」として書いてしまいますけれども、4人用のバルコン席と取り、カメラマンの在本彌生さんとワタシ以外が、エントランスで煙草を吸う振りをしながら見張りをし、ドキドキもんで隠し撮りしたものです)、このとき、ワタシの脳内にあったのは、これはもう当然、ヘルツォークの映画『フィツカラルド』(アマゾンの密林の中にオペラハウスを作る、狂気の男の話。基本的に実話であり、作られた劇場は「アマゾナス劇場」と言って、比較的はやくに潰れ、しばらく映画館になって、それも潰れ、現在は不明)であって、再び当然、「できるものなら」アルバムにオペラ歌手を召還し、有名なアリアと、自分で作曲した混血的なアリアを収録しようと思っていたのでした。しかし9年前のワタシの(あらゆる意味での)実力では、オリジナルのアリアなど到底無理だったのです。

 

 ペペはその後「野生の思考」を経て、メンバーチェンジも行い、0809年と、1年おきの連作といった趣で『記憶喪失学』と『ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ』をリリースしますが、連作的でありながら(ジャケットのコンセプトやエンジニア等々、の共通項があります)、音楽性にはかなりの違いを見せる両作のうち『ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ』は、いよいよオペラ歌手の召還が(再び「あらゆる意味で」)「できるもの」になっていた、ということを示しています。

 

 「記憶喪失学」までペペの弦楽オーケストレーションや委嘱作品を提供していた、実質上12人目のメンバー、中島ノブユキさんは『記憶喪失学』で参加を終了されており(野暮の極地ですが念のため。揉めたとかではありません。中島さんとはその後も公私に渡っておつきあいさせていただいております)、『ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ』はワタシが一筆一筆すべて書き上げた、最初のペペのアルバム(その次が『戦前と戦後』)となったわけですが、そのときには、いわゆる「機は熟していた」という奴で、ワタシは高見元Pに「そろそろ入れちゃいますか」と言い、高見元Pは「はーい」と言って、何人かの日本人ソプラノ歌手の方をリストアップしてきました。ワタシは東京芸大にクラスを持つ身(現在は休職期)ですが、クラシック界の知り合いなど一人もいませんので、『イントキシケイト』の人脈で、というか、そもそもクラシックと現代音楽が守備範囲のセンターだった高見元Pの仕事ぶりは素早く、かつ素晴らしいものがありました。

 

 「機が熟した」、その熟し方は多角的なのですが、ひとつは曲が書けたこと(これが「行列」で、「戦前と戦後」にINされているライヴDVDにイントロからワンコーラス分まで入っています。このアレンジは自分でもアルバム版より遥かに気に入っていますので、ぜひチェックしてみてください)です。ワタシは近代のオペラの中ではストラヴィンスキーの「結婚」という物凄いのが一番好きで、この作品のグロテスクぎりぎりの混血性と、威厳、そこに〈一民族の(歌いながら、幸福な)集団自殺〉というテーマを加えて「行列」を書きました。

 

 そして、このアルバムの献辞にある通り、2009年の夏には、マイケル・ジャクソンとピナ・バウシュ、そしてマース・カニングハムが相次いで亡くなりました。この3人はワタシにとっての舞踏の神々で、特にピナに関してはフェリーニの『そして船は行く』に登場する盲目の女王役にハマりこんでから、彼女の公演について調べまくり、同じくハマりまくりましたので(その代わり、同じコンテンポラリーダンスの〈ローザス〉の代表であるなんとかケースマイケルいうファックな権威主義者とは我ながらどぎつい厭味の言い合いを密室でして、周囲をたいへん困らせてしまいましたが、これに関しては拙著『M/D』に詳しく書いてあります)、本当に本当に哀しく、彼女が自らの作品「カフェ・ミューラー」で使用した楽曲「私が土の下に横たわる時」というパーセルのアリア(17世紀――バッハより前――の曲です)も併せて録音することにしたのでした(ですので、ちなみに。ですが、先日ラジオでオンエアした、阿南さんを盲目の女王役にして、ワタシが夜伽をやったコントは、こうした流れをすべて含んでいます)。

 

 こうして『ニューヨーク~』の中に「行列」と「私が土の下に横たわる時」の2曲が収録されることになり、ワタシはいつものように、10年スパンの願望が自然に現実になる経験をしたわけですが、その際に、前述の流れで、林正子さんに出会ったのです。10名ほどの候補の中、ワタシはすぐさま林さんに決めました。

 

 現在のクラシック界は、半分はジャパンクールというか、そもそもコスプレだわゴシックだわバロックだわ、「のだめカンタービレ」をキッカケに……などと断るまでもなく、そもそも本質的にオタクさんの口に召す食べ物であって、日本での市場の活気はジャズの100倍ぐらいだと思われます。ですから、高見元Pがリストアップしてきたソプラノ諸嬢の中には、声優アイドルみたいな方もいましたし、単にアイドルみたいな方もいましたし、つまり、細くて小さく、顔がカワイイ(ワタシの審美眼と別に。一般的に)。といった方がわっさわっさいらっしゃいました。

 

 しかし、その中で林さんはまず大柄で頑丈そうであり、スイス在住で(当時)、何より目の狂気が全然違いました。なので、ワタシは林サンに決めたのです。立川直樹氏が臨時のエージェントのようなことをされていて、ワタシと高見元Pは、六本木のビストロで、林さん、立川氏も含めた4人で初ミーティングし、ほとんどすぐにスタジオに入りました。

 

 そこから先は驚くべきことばかりで、今日に至っています。ワタシは90年代に名古屋の芸術総合センターで、コンテンポラリー・バレエとクラシック・バレエと演奏家が建築とコラボレーションするという、いかにもな仕事をしたことがあるのですが、リハーサルに一か月を費やし(こういうのをバブルというのですね)、まず最初の2週間はコンテンポラリー・バレリーナ(全員外人)一行が来てリハーサルし、3週目にクラシック・バレリーナ一行が来るのですが、それまで「すげえなあプロのバレエダンサーは……」と、毎日感心しながらリハーサルしていたのが、いざクラシック・バレリーナさんたちが来て、どんどん稽古場に入り、挨拶もそこそこにどんどん服を脱いでバレエ用のレオタード姿になり(ついでに「コンテンポラリーの一行とは一瞥もくれぬまま」)、そのままバーで柔軟運動を始めた瞬間に、それまで物凄いプロに見えていたコンテンポラリーの人々がコンビニのバイトさんになってしまったことをいまだに鮮やかに覚えていますが、林さんがレコーディング・マイクの前に立ち、最初の声を放った瞬間に、ワタシもエンジニアも、あまりに美しい大音量に、スタジオのスピーカーが吹き飛ぶかと思ったものです。それは、抜き(セーブしているという意味です)も抜き、サウンドチェック用の試し発声だったのです。2011年の311日にジュネーブから成田に降り立ち、自宅に着いて、荷物を解き始めた瞬間から地面が揺れ出した、そして、バイカーズの革ジャンがよく似合い、沖縄の離島では探検めいた大冒険によって自然と触れ合う、林正子さんをご紹介しようと思います。