僕が처음 뵙겠습니다.만나 서반갑습니다というと、チャン・ゴンジェ監督は同時通訳の方を向いて한국어를 할 수 있습니까?と言ってニコニコした。「いや話せません笑、リトルコリアに住んでいましたが(以下、いつもしている話)」と言うと、「A Midsummer's Fantasia 에 대해 좋은 평을 써주셔서 감사합니다」と言った。今回対談をする条件として、「欧米休憩タイム」に収録した「ひと夏のファンタジア」に対する批評を韓国語に訳して、読んでおいてもらう事、監督の過去作品を全てDVDに焼いて事前に貸してもらうこと。を前提にしたのである。
対談イベントは、登壇するまでは相手と話さない。と決めておいた方がやっぱり良いな。と思う。重要なことは殆ど学や挨拶の際に話してしまい、とうとうPRIMARYについてまで話が盛り上がって(どういうわけだか。としか言いようがないのだが、僕が会う外国人監督はみんな音楽の好みが一緒で以下、ハングル入力がめんどくさくてしょうがないのでカタカナで書くがゴンジェカンドンニンはナヌン・ヌジャベス・チョアヘヨなのであった。「タンシギニン・ヨアエヌン・ヌジャベス・エオウリムニダ」と言うと、もうカタカナもめんどくさいので漢字とひらがなとカタカナで書くが「ジャズっぽいヒップホップだったらヌジャベスが一番良いですね」と監督は言い「あなたの音楽も聴きたい。ジャズなんですよね」と言って盛り上がったので「と、こういう話をステージでしましょう笑。チャルプッタッケヨ」と言って、楽屋を出て行ったのだけれど、もう、したい話は終わってしまっていたのだった。
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FOOLS、知ってます!佐野元春さんのラジオで「空を見上げて」という曲がかかったのを思い出しました。ドキュメンタリー映画が作られた事も知ってましたが、見ていませんでした。多岐川裕美版の「七瀬ふたたび」、菊地さんのコメントで思い出しました。FOOLSも思い出しました。
菊地さんはじゃがたらとは接点あるのですか?ダーリンサエコさんを観た時南流石さんを思い浮かべたのですが。
“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” に関する菊地さんの記述を読むたびに、ドキュメンタリー『三島由紀夫vs東大全共闘』に出演していた芥正彦さんみたいな人たちのことかな? と反射的に思ってしまうのは、学生運動なるものに関する私の知見が貧しすぎるからに違いありませんが、ぜひこの機会に、菊地さんが『三島由紀夫vs東大全共闘』に写されていた「学生運動なるものと表現との連関」についてお感じになったことを、簡略でも構いませんのでお聞かせ願いたいと思います。このドキュメンタリー映画に関し、菊地さんはラジオデイズで軽く数回言及しておられましたけども、詳しく語ってはおられなかったはずなので。
『三島由紀夫vs東大全共闘』は実に不思議な映画で、あの本編で展開されていた「論客」たちの言い分よりも、そこから一歩引いた「思想や言論のために命をかけることができた、あの時代」に対する憧憬的なノスタルジアそのものに愛着するような心性で発されたとしか思えない感想が(少なくともネット上では)可視化されていました。それは学生運動なるものに参加した当事者やその弟子たちのような折れかけポテンツのしがみつきのみならず、通俗的な意味でのファザコン傾向がある(とくに現在30-40歳代ごろの)女性たちに対しても浅く広まっているようでした。おそらく、あの映画内でのコメンテーターとして内田樹が出ていたことも大きかったのだと思います。詳しくは書きませんが、内田樹のファザコン(性別不問)誘引・誘発力は本当に凄まじいものがあり(←ごく単純にその素因を分析すると、内田当人もレヴィナスという「父」に対する率直な愛着を未清算のまま保持し続けていて、その残り香に現役ファザコンたちが惹かれているからだと思いますが)、その無自覚な誘惑者が「三島ってやっぱりタダモノじゃなかった」という大意のコメントを寄せることで醸成される「ああ、やっぱりパパたちが生きたあの頃って良かったんだなあ」感の訴求力の強さは、生半でないものがあったのでしょう。これは前回の日記で明かされた「七瀬問題」(勝手に用語化してしまいましたが笑)に象徴されるような、「年齢を隔てた異性どうしの間にある政治性の所在が、きわめて当事者的な心性によって曖昧化されてしまう現象」の一例として興味深いものと思います。
(あとは芥正彦さんという、学生運動が退潮したあとでも演劇をやり続けている者の存在が一種のジョーカーとしてあの映画のチャームになっていたと思いますが、それよりも私は、前段落で詳述した「あの世代への憧れ」誘発力のほうが強く作品を律していたと思います。)
1991年生まれの私は、その30年ほど上の(菊地さんとほぼ同じ、ということになるでしょう)世代の学者(とその弟子)たちから「我々は学生運動で逮捕された人々を師に持った世代なので、率直な意見を公表することはなくなったんだ。そのかわり、公に気づかれないようなかたちで “本当に言いたいこと”を著作に忍び込ませるようになったのだよ」と意味ありげな楽屋話を聞かされることが何度かあったのですが、そのたび「で、その学生運動でパクられた奴らの下の世代がセコく立ち回った結果が現状の日本国なのか?」と率直に反問したくなったものでした。このような意味では、私も菊地さんの“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” への拒絶感を共有しているかもと思います。だいぶ前のことですが、私は福岡県在住ということもあり、足立正夫の生き様を写したドキュメンタリー映画(たしか、足立に惹かれたフランス人が監督したもの)を上映後のトークセッション付で観る機会があったのですが、観終えた後の私の中に言いようもない怒りが滾っていたので(←それは日本における左派への弾圧に発する心情でも・足立が関わっていたというパレスティナにまつわるものでもなく、「このような人間が表現者ヅラして、あまつさえ大家扱いされているようでさえある」という状態に対しての若々しい怒りであったように思います)、トークセッションが始まる前に深呼吸とともに映画館を後にした記憶があります。ここで私が感じた怒りも、菊地さんがかねてより指摘しておられる“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” の「貧乏くささ」への陰性評価と同根に発したものかと思います。
『THE FOOLS 愚か者たちの歌』公式サイトのコメント寄稿者欄にも、上述のような当事者性にふれてきた人々が多く見られ(←「多く見られ」と書いてしまいましたが、これは単に、私が浅野忠信の名から青山真治を自動的に召喚し・それによって『AA 音楽批評家:間章』まわりの人脈をも幻視しているからなのかもしれませんが。ところで括弧内で簡略に書きますが、青山真治の映画は女性まわりの描写が最晩年の作品においてさえダメすぎて、なぜ蓮實重彦さんが黒沢清と同様に青山真治を評価したがるのかまったく理解できないまま今日まで来てしまいました。少なくとも黒沢清は、「女性についてはちょっとわからない」という不器用な誠実さがずっと徹底されており、何より「音楽への岡惚れ」が殆ど感じられないところが素晴らしいと思います。これは青山真治や中島哲也のような「音楽に岡惚れしやすい福岡出身の映画監督」というカテゴリの問題系に属し、もしかしたら足立正夫とも関係あるのかもと思われます)、パッと見てはうわっと思わされるけども、菊地さんの日記内容を読んでいて「そっちとは違う流れも汲んでいるんだよ」とアシストしていただけたように感じ、ぜひ観てみたいと思いました。
やたら羊腸になってしまったのでまとめますが、『三島由紀夫vs東大全共闘』に写されていた学生運動なるものと表現との連関について菊地さんは率直にどうお感じになったかについてと、性差と政治性にまつわる問題が当事者的な心性によって見えなくされてしまう「七瀬問題」が学生運動なるものと関連するところが有るか・無いかについてのご意見をお聞かせいただきたく思います。とくに後者のほうは、チャン・ゴンジェ監督との間で交わされた韓国フェミニストの当事者性をめぐる話と重なるところがあるかもと愚考します。
>>1
どんどん思い出してください!!笑
>>2
saekoさんと南流石はバイブスが似てるだけで、ダンスは全く違いますね笑。とは言ってもバイブスのが重要かも笑。
僕はOTO(今ではや真ん中で農業やって健康そうです→アルアルの極み笑)と少し付き合いがあっただけです。DCPRGは日本のオルタナティヴの技術の複雑さを百倍化してしまったので、ある意味、テーブル上のものを一掃した感がありますが、第一にはノードラッグでしたし、第二には計画的で、第三には戦争に対する立場がそれまでのシーンとは違っていて、あっという間に「独特」という箱に入りました。
>>3
<“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” に関する菊地さんの記述を読むたびに、ドキュメンタリー『三島由紀夫vs東大全共闘』に出演していた芥正彦さんみたいな人たちのことかな?>
ほとんどアレの穴師をしているようなものですね笑。この件に関しては田畑さんとは齟齬とまでは申しませんが、よくある論客同士の年齢差や個人差が出たなと思っています。
僕が唾棄しているのは芥正彦のような「転向んで、毒にも薬にもならないようなアート(多く演劇)」をやっている人々で、有名無名を問わず結構いますが、放置してもいなくなるので、唾棄せずとも良い。と最近は考えていますけれども、逆に、「消えてしまう」ので(どう考えても業績が演劇史、詩作史、音楽史、とうとうに残らないので)、逆にだきせず保管すべきだとも思うぐらいです。
それに比して、ご指摘の、内田樹(今、ガンと闘病中ですね確か)のファザコン誘発性の高さと、それにヤラれる人々、に関しては唾棄するような問題系で捉えていません。第一に内田樹は精神分析と身体論を両立するので、僕と立ち位置が似ているとも言えますし、最初期の「<大脱走>分析」など、優れた仕事をしていると評価しています。
と、全体が甚だ大雑把ではありますが笑、結論として、「世代マウント」は、不可避だと思います。格闘技ではアンダーポジションからのマウントを「下から」と言いますが、文化的に「下からマウント」は、今のところ、日本人でできるのは僕以外いません8なので、マウンティングに敏感な者から順に僕を敵対視します)ほとんどの下は、ヒッピーと同じで「下から」は、暴力的な革命しかできず、地上の、というか「上」の世代は潰してしまうしかないからです。
ですので、僕も芥正彦らを殲滅したい訳ではなく、醜態がもっともっと知られるべきだと思うのですが(笑うぐらいみっともないので笑)、何かそれも力が抜けるような話ですので、三島のあの映画には「助かった」という思いがあります。
「世代マウント」の不可避は、ファザコンの召喚と不可分です。僕はこちらの方はほとんど問題視していません。ファザコンはどちらかというと、社会構造よりも、個人の内部に原因があり、ノンケはどこまでもノンケだからです。ファザコンこいこいもマザコンこいこいもいっぱいいます。僕を失われた「叔父さんこいこい」だと高橋源一郎さんが定義したことがありましたが、それもどうかなーと思っています。
いずれにせよ、田畑さんにお返しするアンサーとして、もっとも一般論的になると思うのですが笑、僕が重視しているのは個人の業績への評価で、芥正彦がクソみたいなもんで、内田樹はきちんと評価されるべき真っ当なものだ。という「評価」は、「世代マウント=ファザコンと直結」という問題を外して仕舞えば、どうでも良いような問題で、「学生運動」の転向者が、政治ではなく、詩や演劇等に流れた。という例外的な導線だけを僕は問題視しています。「学生運動の季節」を、不動のゴールデンエイジとする、という既得権益を不当と思うからです。
極端にいうと、彼らのおかげで僕は演劇や現代詩を心の中で嘲笑っているようなポジションに立たされているとさえ感じる時があり、個人的に困っています。谷川俊太郎が偉大な詩人だたのは理解しないでもないですが、あまりにも周囲に、谷川俊太郎を神格に置き、谷川俊太郎の詩にインスパイアされた現代音楽とか、シンプルに谷川俊太郎の詩にメロディーをつけた、とか、谷川俊太郎の朗読音声をサンプリ(以下略)といったことをする者が溢れかえっており「それって、谷川俊太郎が好きならやめた方が良くない?」と思うばかりで、乖離しないといけないので疲れますね笑。
これは煎じ詰めれば「左翼」と「反体制」の癒着という問題も含んでいます。あのFOOLSでさえ、末期には血迷って、アイヌ解放運動と一瞬、野合します(これをのちに大々的に展開するのがソウルフラワーユニオン)。FOOLSが天使的だなあと思うのは、一瞬よくわからずに野合して、すぐ離散し、ロックンロールに戻ることですが笑。
なのですが、田畑さんが僕が、ということではなく、一般論として、「ウザ」いのは、「学生運動」が「転向んだ結果」という、いわば文化的な特区が巻き起こすことよりも=あまりに狭い話なので、シンプルに「カルチャー世代マウント」と「ファザコン」(ここに「マザコン」も含まれてくれれば、僕はどれだけ良いかと思っています。ここはフェミニズムの問題です。マザコンはカルチャー=「知性」に癒着しないので)の癒着問題だと思いますね。「あまりに広い話」ですので笑。
「七瀬」が女性蔑視的な器に守られても女性が興奮してしまう。というのは、これも特殊例で一般化できません。筒井先生の筆力、手腕が、ちょっとでもバランスを欠いたら、マスとしての「多くの女性読者」は獲得しなかったでしょう。しかし、池澤春奈さんは、全く形を変えて、名誉職に付き(彼女は日本SF協会の会長です)、瞳孔を開いていたと思います。
>>6
ご返信をいただきありがとうございます。
「世代マウント」の上下構造についてご説明いただき、(山下トリオの早稲田ライブにおける村上春樹との談話の件も含めて)多くのことが腑に落ちた気がしました。 “ほとんどの下は、ヒッピーと同じで「下から」は、暴力的な革命しかできず、地上の、というか「上」の世代は潰してしまうしかない” とすると、中間の「路上」と呼べるようなところでは世代や出自を問わない Hard Core Peace が実現する余地があり、菊地さんは音楽を通してその実践を絶やさずに居られると思うのですが(音楽教師として生徒に外傷記憶を与えず、なおかつ周囲の生徒たちにもイジメを誘発させる余地を残さない。という菊地さんのお仕事ぶりは、本当に素晴らしいと思います)、この上下いずれにしても対象への暴力性を誘発してしまうマウント構造は、知識による武装だの世代による特権的体験だのを解除したあとでようやく解体されるのかなと思っています。その武装解除に対して生じる「抵抗」の大きさについては、貴見のとおり “社会構造よりも、個人の内部に原因があり、ノンケはどこまでもノンケだから” さほど気にしなくてもよいのか、とも。
“「学生運動」の転向者が、政治ではなく、詩や演劇等に流れた。という例外的な導線だけを僕は問題視しています” と簡潔にご指摘いただいて、ああこれは「昇華」の問題だったか、と今更気付かされました(とくに “政治ではなく”という補助線によって)。もちろん学生運動で被った不全感の「昇華」を音楽活動に回した者たちも居たでしょうけども、そこには(先述の)非マウント地帯での和平が成立する余地があり、だからこそこれはミュージシャンのレペゼン意識にも関わることですね。 “FOOLSのファン達が転向を余儀なくされ、散った後、どこにでも良いから、潜伏して生きていて欲しいと思う” という記述の意味がようやく理解できました。あと、菊地さんがアミリ・バラカのフリージャズ同伴のポエトリーリーディングを高く評価しておられない理由についても。あれは現代詩レペゼンと音楽レペゼンの双方がなんとなく野合している状態、つまり相互的な弱度を他文化との連帯意識によって合理化してしまうパターンで、 “「それって、谷川俊太郎が好きならやめた方が良くない?」” の件もこの問題系に属しますね。
“「カルチャー世代マウント」と「ファザコン」(ここに「マザコン」も含まれてくれれば、僕はどれだけ良いかと思っています。ここはフェミニズムの問題です。マザコンはカルチャー=「知性」に癒着しないので)の癒着問題だと思いますね” の括弧書の箇所をとくに重く読みました。ここでまたぞろ宮崎駿を持ち出すのも芸が無いですが、以前、『風立ちぬ』をゲーテ『ファウスト』になぞらえて読解する論文を女性の知人が書いていたことがあり、言うまでもなく『ファウスト』は「知性的」な男性の自分探しの過程で「無垢」な女性が屠られるつくりなのでフェミニズム的に赤点文学なはずですが、彼女は女性に聖性は認めるが知性はどこかへ放ってしまう男性的態度を問い詰めるでもなく、論文執筆後も相変わらずジブリの幸福なファンとして生きているようでした。別の件では、『風立ちぬ』の男性登場人物どうしのBL的関係性にのみ注目して評論らしきものを連発していた女性の例もあり、その「当たり前に知や美を備えていて同じ地上に生きている女性」の存在から何としてでも目を背けたいという強烈な力がジブリ作品を軸にして発生している様は、ちょっと見るに凄まじいものでした。これは “ノンケはどこまでもノンケ” である以上、反射的に手掴みにできるフェティシズムを部分対象として凝視する過程で政治性が消去される、というメカニズムと関連があるのかもしれませんね。
いずれにしろ、前段落で述べた件が “谷川俊太郎を神格に置き、谷川俊太郎の詩にインスパイアされた現代音楽とか” 〜の件と関わることは確かで、数年前から海外でも高く評価されはじめたとある女性アーティストは例によって谷川の『生きる』を音楽化している(おそらく不可思議/wonderboyのあれにヤられたとしか思えない)のですが、海外ツアーにおける彼女の客層を映像で見ていると純正 kawaii の文脈で歓迎されているとしか思えず、それは対象のアニメ化=非政治化というジブリ的現象とほぼ同質であり、 riot grrrl を自認するアーティストがそれを認めてしまってよいのか、と当惑したことがありました。これは政治的主体である女性の表現と外部からの評価のズレによって生じる不全感の問題でもあり、確固たるレペゼン意識を持っていたはずの主体がいつのまにか曖昧に外部と野合してしまう、「必ずしも言語を必要としない表現のなかで言語的情報を発信した際に生じる過拡散的アピール≒誤爆」の問題をも汲んでいるでしょう。
以上を乱雑にまとめると、学生運動を介してポテンツを回復したい人々の意図とは関係無しに音楽をやれた山下トリオはすごい、というバカ丸出しの結論が出てきてしまいましたが(笑)、しかしこれは筒井康隆さん個人に属する特殊性の件とも関係があると思います。バカな意見を重ねますが、学生運動帰還者たちの中でも「ザ・ウチアゲ」や「全冷中」に参加できた者とできなかった者との間で断裂が生じていて、前者に似た精神性の持ち主が世界を救う、と現在においても私は思っています。一般性と特殊性の両方で絡みあって生じる問題の数々を見ていると、最終的な和平を導き出せるのは個人の特殊性の力であるはずで、レペゼン意識という一般社会的属性は、個人が置かれた状況も含めた特殊性のうえに立った状態で初めて平和的な力が汲み取られ・発揮されると信じます。
学生運動帰還者を詩や演劇へと向かわせた機制は、以上述べたことを見失わせる何かと関係があったのかもしれないとは思いますが、若僧の限界としてこれ以上は書けません。無用の尾鰭を付けてしまったかもしれませんが、私の主観としては無駄な思索が切り落とされて THE FOOLS が生きた時代まわりのことが見えやすくなったようです。経絡に気が通った、とはこのような状態を指すのかもしれません。いつもながら懇切なご返信に感謝いたします。個人がおこなう表現には、これまでも・これからもできることが沢山ありますね。