<TSUTAYAをやっつけろ〜日額30円での2本立て批評>
 
 第四回「映画と音楽について、もう一度(1)」
 
フランス・イタリア合作映画『軽蔑』(63年)
ジャン・リュック・ゴダール監督
 
フランス映画『アメリカの夜』(73年)
フランソワ・トリュフォー監督
 
 
 この、我々現代人の魂を揺さぶる、愛と、もうひとつの愛と、ほかのいくつもの愛のあり方を「映画製作中」という特異な状況下に描いた、双生児的な二つの傑作について書き始める前に、些か長いイントロダクションを置かねばならないことを陳謝する他ない。それほど長い。
 
 汝の最大の敵は誰かと問われれば、間違いなく権威主義者である。しかしこれは<自分が反権威主義であり、従って権威主義者と原理的に敵対せざるを得ない。毎日が権威主義者との闘争である>という意味ではない。
 
 自分は別段、権威主義者というわけでも反権威主義というわけでもなく、権威などというものは、あってもなくともどちらでもよい。レンブラントや一羽の孔雀やコロンビア大学に大変な権威があっても一向に構わないし、ダライ・ラマや朝日新聞やサファリパークのライオンに権威がなくとも一向に構わないし、それらが総て逆でもよい。
 
 卑近な例になるが、『東京大学のアルバート・アイラー』と『ロックとフォークのない20世紀』と『M/D』という本を出したときの騒ぎはもう「大漁だ大漁だーい!」と、港に叫ばなければいけないほどで、別に釣るつもり何もないのに、権威主義者をどんどん釣り上げる立派な遠洋漁業の漁師になってしまった。隠れた才能が爆発。という意味では『スラムダンク』並だと言えるだろう(実は『スラムダンク』が何だか知らないのだが、漫画の好きな友達が、この部分に挿入するのは『ゴッドファーザー』よりも『のだめカンタービレ』よりも「絶対スラムダンク」だ。と言われたので)。
 
 東大、アメリカ(の大学が認める、「正しい」歴史)、(芸術としての)フリージャズ、(ロックを馬鹿にする、複雑で高尚な音楽としての)ジャズや現代音楽、ロックカルチャー、「帝王」ことマイルス・デイヴィス等々を自由自在に権威として担ぎ、畏れおののく権威主義者たちは、耳鳴りがするほど高音でキーキーいななく鳥だ。
 
 彼らをいななかせるために本を書いたのではないのに、彼らは全存在を賭けて必死にいななく。カンボジアで昼ご飯を食べようとしたらハエの大群がやってきた。ハエは別に嫌いでも好きでもない。一匹の自由なハエは典雅ですらある。しかし、食事中に大量に取り巻かれればそれは敵である。自分の弁当は、ハエにたかられたくて路上に広げたのではない(「そんなところでそんな弁当を広げたらハエがたかると解らなかったのかね」という賢者からのウィズダムの前にはひれ伏すしかないのだが)。
 
 著者自らが著作を引用して云々するというのも野暮ったい話だが、『東京大学のアルバート・アイラー』という書名は「学者でも何でもない、高卒の二人が東大に呼ばれて、でっかい音でアイラーだのアースだのをかけまくる授業をやるということ自体がかなり面白い。面白過ぎて過ぎてシュールリアリズムみたいだ」ということから、有名な「手術台の上の蝙蝠傘とミシン」の軽い捩りとしてつけた名前なのだが、先ずは一匹「東大と言えばひれ伏すとでも思うのだろうか!アイラーと言えばひれ伏すとでも思うのだろうか!」と、日頃人をひれ伏せたい欲望パンツみえみえの大物が釣り上がってしまい、大量の雑魚がそれに続いた。