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waさん のコメント

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wa
ヤン提督と凡百のやる気のない人の決定的な違いは
自分で自分の責任をとる気があるかどうか です

人まかせ、進路もゆだねる、部屋も片付けない、コントロールをしない代わりに
その結果を自分で引き受ける、人を攻撃しないし、それで生じた面倒をきっちり引き受けるし
いろんな人が人生をゆだねてくることの怖さを知っているけど拒絶しない

愚痴は多いですがw人より重い荷物がある事が見えていて
無責任に俺TUEEEEもできないし自分にも酔えないから腰が重いし毒舌だし
口だけ駄目人間なことを言うけど
駄目なままでいいや、責任取りたくない、俺のせいじゃない、誰か何とかしてくれないかな
という受動的な凡人とはそこが決定的に違うところだと思います
No.22
118ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 漫画家の藤田和日郎さんがTwitterで『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーについて語った言葉がずっと気になっていました。ヤンを「負けた」人物として捉えた発言で、ひとつのヤン・ウェンリー評として大変おもしろかったのです。  しかし、一方でその意見はやはりぼくの見るヤンとはやはり少しずれているような気もします。もともとヤン・ウェンリーというキャラクターは非常にとらえどころのない性格で、はっきりこういう人柄とはいえないところがあります。こういうひとだ、といいきった瞬間に何かがこぼれ落ちてしまうのです。  ヤン・ウェンリーとは何ものか。ぼくはもう二十年以上ヤンのファンをやっているのですが、未だにそこははっきりしません。ただ、多少は思うところがなくもないので、以下で語ってみることにします。  まずは藤田さんのツイートを引用しておきましょう。ただ、もとのツイートはもう流れてしまったので、ネットで検索して出てきたログを結びつけて引用させていただくことにします。  本来、引用の作法としては良くないことだろうし、ぼくもふだんは引用元をはっきりさせることを心がけているのですが、今回ばかりは例外ということにさせていただきます。あしからず。  先ほど「銀河英雄伝説自由惑星同盟編」の劇を観て帰宅。 田中芳樹先生にもお会いできて満足です。 舞台は、踊りあり、歌あり、CGの宇宙戦闘ありでとっても見応えがありました。 楽しかったですよ。 演技陣もヤンの河村隆一さんを始め、違和感のある人はいなかった気がします。  さて、内容ですが、これは感想をこういうトコロで書くのは難しいよねえ。だから、あくまで、おれ個人の感じたコトとしてね。 ヒトによって様々なキャラクターの捉え方があります。 ヤン・ウェンリーの捉え方もそうで、自分はヤンをラインハルトとの対比で、「負け」の思想が入っている魅力が素敵だな、と思っていました。  なりたいのは歴史学者で、軍人ではないのに用兵、戦略と天才的な手腕を発揮していつの間にか英雄になってしまった。 いわば、望んでいない道を歩いている彼は他者の評価はさて置き自分では「負けて」いる意識が強いのではないかと。だからこそ国の「正義」に懐疑的だし人の「信念」に皮肉的な立場をとったりする。それが非常に作品の中でバランスの取れたキャラクターだったし、だからこそ彼はぼやくし、毒舌も鋭いのだけれど、同時に謙虚で人の話もよく聞く人だと自分は捉えていたんですね。   今回の演劇は、大変脚本家さんが一生懸命にヤンを語ろうとしていたのはわかったんですが、 いかんせんヤンとしゃべって、色々な局面でヤンがどうおもったのか?ヤンがどう感じたのか?を、彼の感情と共にセリフとして引き出すキャラクターがいなかったので、ヤンがいかなる人なのか結局わからぬままに終わっちゃった感じがしました。 (アッテンボローやユリアンが適任だと、思うんだけどなあ。)  ヤン役の河村隆一さんは、ヤンを「負け」の魅力の人物と捉えている自分としては、その猫背じゃない良い姿勢と、自信をもって流麗にしゃべる台詞から、個人的にそのキャラクターの捉え方が違うんだなあ。と面白く観させていただきました。 ヤンは、人の話を聞いてまず自分に飲み込んでから、ボソボソ要点を話す人だと自分は勝手に思い込んでいたので、全てお見通しで打てば響くようにしゃべる河村ヤンは、人それぞれにキャラクターの捉え方があるもんだと、興味深かったのでした。(笑) それがイイ、ワルいは言ってないよ。 観た人はどう感じるのでしょう?  藤田さんはヤンを「「負け」の思想が入っている魅力」と評しているわけですけれど、これは非常によくわかる話で、ぼくも七割くらいは共感します。  ヤンは歴史学者を目指しながらいろいろな事情で自由惑星同盟の英雄になってしまった人物で、自分の思っていた道とはほぼ正反対の道を歩んで生涯を終えました。その人生を「負け」という言葉で表すことはできるでしょう。そこに文句はない。  ただ、のこり三割の違和は、ヤンは自分の人生を「勝ち」「負け」といった価値観で捉えていただろうか、というところにあります。仮に捉えていたとしても、そもそもヤンって、あんまり本気で勝ちたいとも思っていなかったように思うんですよね。  これは原典をしっかり読みなさないとはっきりしたことはいえないことだけれど、かれはそもそも自分の人生を自分できちんとコントロールしよう、という意欲が薄いように思える。  歴史を学びに大学に行くはずが、父親が死んでしまって無一文で放り出されるところがかれにとってまず第一の誤算であるわけですが、ほんとうに歴史学を志すつもりがあったのなら、苦学しながらでも大学に通ったんじゃないかな、と思うわけです。  ところが、ヤンはそこで「ただで歴史が学べる」士官学校に入ってしまう。ここらへん、いいかげんというか流されがちというか、少なくとも初志貫徹の強い意思は見て取れない。  で、そのまま士官学校を卒業しひょんなことから「エル・ファシルの英雄」と成り上がるわけですけれど、これはたしかに本人の望むところではなかった。その意味でヤンは「負けた」といえなくもない。でも、ここでもヤンはじゃあ軍人を辞めてべつの仕事を探そうとか、そういうことは考えないわけです。  ラインハルトに降伏し軍を引退した一時期を除くと、33歳で亡くなるそのときまで、かれは一貫して軍人であり続けるわけですが、本当に強い意志をもって運命を変える気があれば、もっとやりようはあったような気もするんですよね。  ヤンの名声をもってすれば引退していた数ヶ月間に本の一冊も出すことは可能だっただろうし、出せば間違いなく大ベストセラーになっていたでしょう。それにもかかわらず、かれはついに自分の意見を世に問うことはしなかった。せいぜいユリアンに向けて愚痴るくらいで終わったわけです。  そこにはいろいろな深慮もあったかもしれないけれど、半分くらいは単純にめんどくさかったということもあるんじゃないかと考えます。それが何ともいえず「ヤン・ウェンリーらしい」ところです。  かれはたしかに自分の人生を思うままにコントロールすることに失敗したけれど、それでもその場その場ではけっこう人生を楽しんでいるように見える。仮に「負けた」と考えていたとしても、深い後悔などはあんまりなかったんじゃないか。ただ「ああ、失敗してしまったな」と溜息をつくくらいの気もちだったんじゃないかと。  根本的にあまり「やる気」がないひと、モチベーションが低いひとだったといえるかもしれません(突発的にやる気を出すことはあるけれど、あまり持続しない)。やる気至上主義的な価値観からすれば、ダメな人間ですよね。  それにもかかわらずかれは最大の結果を出す。これは現実離れしたファンタジーのたぐいと見るべきなのか。そうではない、と思います。ヤンはたしかにやる気はないけれど、でもやるべきことはきっちりやっているのであって、だからこそ行動をやる気に依存しているひとにはできないことができるのではないか。  かれは非常に逆境に強いですよね。どんなに追い詰められてもひょうひょうと状況を変えていく。決してプレッシャーに押しつぶされたりしない。ほかの人々が状況に圧殺されていっても、かれだけはかれらしくありつづける。これはかれが世間でいうモチベーションとはべつの力で動いていたことを意味しているような気がします。  決してラインハルトのように情熱に燃えあがることなく、ただ淡々と、やるべきことをやる。それがヤン・ウェンリーのワークスタイルだったのかな、と。  ここのところ、ものは試しとふだん読まないビジネス書とか自己啓発書を何冊か読んでみたのですが、そこで理想とされている人物像はヤン・ウェンリーと対極にあるものだと思いました。  そういった本は、自分の人生をきちんと管理しよう、と訴えています。時間やお金を無駄にせず、徹底的にコントロールしよう、コントロールできることが幸せというものなのだ、と。しかし、ほんとうにそうなのか? ヤン・ウェンリーの生き方は、そういった価値観に対してアンチテーゼを示しているように見えます。  かれは自分の部屋ひとつ管理することができないし、自分の艦隊の管理も部下(フィッシャーとか)に任せてしまいます。能力的に管理できないというよりは、あまり「管理すること」に価値を見出していないように見えるのですね。  自分の人生を徹底的にコントロールしようとしたラインハルトとは対照的に、人生や生活にアンコントローラブルな部分を残すことを問題視していない、といえばいいのか。やるべきことはきっちりやるんだけれど、それ以外は相当にいいかげん。それがヤン・ウェンリー。  かれの存在そのものが「いいかげんにするな」「真剣に考えろ」「真面目に生きろ」といった思想のアンチテーゼです。ほんとうはとても真面目なのかもしれないけれど、決してそう見えることをよしとしなかったのがヤンなのかな、と思います。  ただ、やっぱりヤンは捉えどころがないので、こう書いただけでも、もう「何か違うな」という気がしますね。非常に「揺れ幅」の大きい、奥が深い性格設定です。はたしていつかヤン・ウェンリーについて「わかった」と思う日が来るのか、どうか。  とにかく何十年もひとりの人物について考え続けられるということそのものが、物語を読む喜びというものでしょう。やはり『銀英伝』は傑作だ、とあらためて感心する秋の午後なのでした。
弱いなら弱いままで。
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