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恋愛工学について調べています。いやあ、いままで特に興味がなかったんだけれど、あらためて探ってみると、面白い面白い。非常に興味深い「鉱脈」で、いろいろと思うところがあります。
藤沢さんの著書の『ぼくは愛を証明しようと思う。』も読んでいるのですが、こっちは女性蔑視がきつくて読むのが辛い。
いや、書いている本人は侮蔑しているつもりはないのだろうけれど、実質的にはほぼモノ扱いといっていい。カンチガイ男のご高説を延々と聞かされているようで、なかなか神経に堪えます。
それなら読まなければいいようなものだけれど、面白いことは面白いんですよね。いろいろ問題のある理論だとは思うけれど、非モテとかキョロ充の一部男子を力づけてくれることだけは間違いないと思う。力づけられた結果、何をしだすかはわかりませんが……。
すでにたくさんの人が指摘していることですが、恋愛工学のロジックはそれほど目新しいものではありません。恋愛工学の「テクノロジー」は過去のナンパ本にあったテクニックをあらためて体系化しただけです。
それを「テクノロジー」と称し、「工学」というカバーを付けて売り出したところが偉いところなのかもしれませんが、テクノロジーっていいたいだけだろお前みたいな気もしてしまいます。
ただ、ぼくはべつに恋愛工学の欠点をあげつらって批判する気はありません。そういう記事はすでにあるし、わかりやすいツッコミどころを見つけ出して叩いたりあざ笑ったりしても意味がないと思うのですよ。
その種の一方通行な批判は、いったほうはすっきりするかもしれませんが、何ら建設的な結果を残しません。ただ相手をあざ笑いあい、ののしりあうという不毛な事態を招くばかりです。
それはまあ「恋愛工学の用語、ダサっ」、「小学生かよwww」みたいな悪口はいくらでもいえるけれど、そういう悪口は相手の心をいっそうかたくなにするだけで、決して「対話」にはつながりません。
そうではなく、ぼくは「なぜ恋愛工学は人を惹きつけるのか?」、そして「なぜいろいろな問題を抱えているのか?」を知りたいと思うのです。
恋愛工学がミソジニー(女性嫌悪)的であるとすれば、どうしてそうなるのか、ということです。
もちろん、ミソジニーは恋愛工学のみの特徴ではありません。ネットで非モテ系のブログをあさると、多かれ少なかれミソジニー的な言説が見つかることが多い。そのなかにはちょっと読むに堪えないようなひどいものもあります。
どうしてこう非モテ男性はミソジニーに走るのだろうか。ぼくとしては興味があるわけです。非モテだからミソジニーなのか、ミソジニーだから非モテになるのか。そこらへんの因果関係はちょっとはっきりしないわけですけれど。
で、ぼくは非モテがミソジニーに排する一因として、「認知の歪み」があると考えています。恋愛工学の泰斗であるところの藤沢数希さんは『少年マガジン』のインタビューでこんなことを述べています。
藤沢:昔から非モテもいましたが、最終的にはほとんどの男性が結婚し、家庭を持つことができました。しかし最近は、一部の金持ちやイケメンに多くの女性が群がり、ひとりの女性とも関係を持つことができずに死んでいく非モテの男性がどんどん増えています。現代は言うなれば“恋愛格差社会”でしょうか。
こういう認識は非モテ界隈ではとてもよく見かけるものです。しかし、じっさいには独身女性の6割が交際相手がいないという現実があるわけです(http://www.sankei.com/smp/life/news/160915/lif1609150042-s1.html)。
少なくとも女性の6割は「一部の金持ちやイケメンに群が」ったりしていない。だから、もし「非モテの男性」がだれかと付き合いたいと願うなら、いまだれとも付き合っていない女性たちを相手にすればいい。
いや、現実的に考えるなら「金持ちやイケメン」と付き合っている女性なんてほとんどいないのではないでしょうか。「金持ちやイケメン」は絶対数が少ないわけで、いくらモテるとはいってもそんなにたくさんの女性を相手にできるはずはないのです。
つまり、仮に「ひとりの女性とも関係を持つことができずに死んでいく非モテの男性がどんどん増えて」いることが事実だとしても、それは「一部の金持ちやイケメンに多くの女性が群が」っているからではないのです。
しかし、非モテ男性界隈では多くの人が女性は「金持ちやイケメン」にしか興味をもたないと考えていて、「ただしイケメンに限る」という言葉が信じられています。
たとえば、本田透『萌える男』には『だめんず・うぉーかー』のなかのあるピラミッド図に言及した以下のような記述があります。
このピラミッドを、ぼくは「恋愛資本主義ピラミッド」と名づけている。恋愛資本主義においては、女性はすべての男性を「商品」として値踏みする。男性は「容姿」「経済力」「趣味」「性格」など、詳細な基準によって判定され、「恋愛偏差値」を算出される。この判定基準は、八〇年代以後に発達した恋愛資本主義システムが作り上げた『恋愛マニュアル』とも呼ぶべき価値体系によって厳密に規定されている。このルールは、マスメディアを使ってシステムが作り上げた幻想にすぎないのだが、彼女たち「恋愛資本主義システム内部に生きる女性」にとっては、唯一絶対の真理なのだ。
そういう女性もいるだろうけれどそうじゃない女性もいるでしょう、といいたくなるところですが、本田さんは確信をもってこれを書いているものと思われます。なぜなら、本田さん自身がそれとよく似たピラミッド図を描いているからです。
恋愛もセックスも、このシステムの内部では金と等価交換できる商品である。ゆえに、金を持っている人間は持っていない人間よりも優位に立てる。だが、実は金だけではない。経済力を含めた「男性的・女性的魅力」が、ヒエラルキーを決定付けている。たとえばモテない男が風俗産業などに等価した金は、女性を経てモテる男へと流れていく。つまり個人の持つ性的魅力が、最強の資本なのである。かくして、一握りの男性が、女性を独占することになるのだ。
そして、多くの非モテ男性が同じことを信じているのです。これは「ただしイケメンに限る教」の最も重要な教義といっていい。
ぼくはそれを「認知の歪み」と考えますが、かれらにとってはそれこそ「唯一絶対の真理」なのでしょう。
そして、ここからミソジニーが始まります。本田さん自身は慎重に女性を直接に非難することは避けているようにも見えますが、それでも女性に対しきわめて保守的な考え方をもっています。
たとえば、かれは「『オニババ化する女たち』にはうなずける」として、三砂ちづるの著書『オニババ化する女たち』に共感を示しています。
内容は「女性は子供を生んで育てないと、オニババになる」という極端な話だが、萌える男の僕としては、うなずける部分も多々ある。僕は今年で三十六歳だが、思い起こせば、同年代の独身女性と一緒にいて心が癒されたという記憶がまったくない。『喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!』的な厳しいチェックにさらされ、オタク趣味を咎められ、金を稼げと叱咤され、果ては役にも立たない陳腐な人生訓を長々と説教され……という経験を十数年も積み重ねてくると、「恐ろしい」という感情ばかりが蓄積されていく。しかしながら、結婚して子供を育てている年上の女性には、はるかに寛容な人が大勢いる。これはあくまでも僕の経験上の話だが、恋愛資本主義システムの中で恋愛ゲームや結婚ゲームに勝利することに夢中になっている三十代独身女性は、癒しや萌えとはもっとも縁遠い存在なのかもしれない。
そもそも生身の女性に一方的に「癒しや萌え」を期待して向き合うことじたい間違えているようにも思えますが、まあ本田さん個人の経験談としては理解できる部分もあります。
しかし、それを拡大して『オニババ化する女たち』に共感を示すことはいかにもまずい。『オニババ化する女たち』はぼくの目から見るとトンデモ本のたぐいです。
何しろ、本田さんも書いているとおり、「女性は子供を生んで育てないと、オニババになる」という内容の本なのですから。
これだけではミソジニーとまではいえないにせよ、きわめて偏った女性観があるといわざるをえません。この種の保守的で偏った女性観と、先に述べた「認知の歪み」が合わさって非モテ界隈ではミソジニーが巻き起こるものと思われます。
つまり、「女は本来、ちゃんと男を癒すべき存在なのに、イケメンや金持ちに群がって恋愛ゲームに明け暮れている。なんと醜い!」ということになるわけです。
かってな言い分としかいいようがありませんが、ここらへんがミソジナスな非モテの本心なんじゃないかなあとぼくは考えています。いや、本田さんがそう書いたというわけではないので、そこはお間違えなく。
恋愛工学に話を戻すと、恋愛工学もまたきわめて深く女性を軽蔑しているようにぼくには思われます。だからこそ、恋愛工学においては女性を「ディスる」ことが推奨されます。
伝統的な恋愛論のいくつかはひどく間違っているのですが、女は褒めると喜ぶ、というのはその内のひとつです。喜ぶかどうかは知りませんが、基本的に、褒めれば褒めるほど、セックスは遠のく、というのが現代恋愛工学のひとつの結論です。むしろ、効果的にディスった方がいいです。(中略)女の売値を下げるためのテクノロジーのひとつが相手を効果的にディスることです。こうやって相手の値段を引き下げるのです。これは少々難易度の高いテクノロジーですが、一流のプレイヤーになりたいならマスターしておくべきことです。具体的には、以下の様な感じで、ディスります。たとえば、東大出や、慶応出のキャリア・ウーマンとか、女医とか、自分は頭がいいと思っている女と、パーティーとかで出会って、会話が始まったとします。ちょっと自分の得意分野に誘導して、相手が分からなそうなことを聞いて、それに答えられなかったら、すかさずこんなふうにディスるんですよ。「お前、意外と頭悪いな」こうやって、自信満々で相手をディスれると、それだけで高学歴女の胸がキュンとしちゃって簡単に落とせる場合があります。そういう時って、もう、次の餌を待ってる時のわんこのような顔でこっちを見つめてきたりしますよ。要するに、自分より高い所にいる女を褒めても、もっと高い所に行ってしまうだけで、意味ないんですよ。褒めるより、ディスれ、ですね。別の例だと、パーティーで綺麗な女に話しかけたら、たとえば相手の職業がモデルだったとします。そういう時も、自信満々でこんなふうにディスりましょう。「仕事何してんの?」「モデル」「あ?、手のモデルね、最近そういう仕事あるよね」こんな風に、上から目線でふだんからみんなに美人といわれて自信満々な女をディスれると、一目置かれて、あなたのことをなぜかほっとけなくなったりしちゃうものなんです。とにかく、売り板の売値を引きずりおらさないとダメなんですよ。下から見上げて「すごいキレイですね」とかいっても、売値がどんどん上がってくだけで、ぜんぜん約定しません。
https://note.mu/kazu_fujisawa/n/n1e6947bec92f
これは「女性の価値を下げてセックスしやすくする」行為であると説明されているわけですが、どう考えてもモラルハラスメント以外の何ものでもありません。恋愛工学は非モテにモラハラ男子になることを勧めているわけです。
ぼくはこういうディスの技術がまったく効果がないとはいいません。場合によっては(相手の自尊心がきわめて低かったりする場合)、劇的な効果を挙げることもありえるでしょう。
しかし、いずれにしろ、相手の女性をひとりの人間として尊敬していたらこんなことができるはずがありません。
結局のところ、恋愛工学も非モテの価値観であり理論なのです。ほんとうにモテる男性(必ずしもイケメンや金持ちに限らない)にとっては不要なものでしょう。
もちろん、モテない男性がモテようとすることじたいは悪いことではありませんが、どうにもそこにモテない人間の価値観が匂ってしまうことはどうしようもないですね。
ちなみに、恋愛工学の学徒たちは自分たちを批判する人間を下に決めつける傾向があります。たとえば、このような記事にそれは端的に表れています。
最後に、身も蓋もない事をいってしまえば、このブロガー(https://twitter.com/ao8l22)はキモヲタだし、彼女を援護している女性A(椎名 (@shiina_rat) | Twitter)は無職で寂しいからネズミ(……ネズミ!?)を家で飼ってしまう女子だ、顔もあまり可愛くない(と筆者は思う)。女性B(チワワ先輩 (@chiwawanko21) | Twitter)はよくわからないが似た様なものだろう。こちらの東京姉妹は(東京姉妹 (@tokyosisters69) | Twitter)は写メ減点法によれば中の下の女らしい。この作家(二村ヒトシ (@nimurahitoshi) | Twitter)は最近恋愛本をいくつか出版している。一冊読んでみたが恋愛工学に比べると妄想のひとことで片付けられる程度の駄作だ。藤沢数希所長は恋愛工学でおそらく億に近い年収を毎年手にしているが、おそらくこの男は1000万円にも到達していないだろう。
なるほど、こういう認識だとぼくの意見などもきっと「キモヲタが何かいっている」として処理されてしまうのだろうなあと思いますね。
ぼくとしてはこれまで長々と書いてきたように、あなたたちの現状認識はその「キモヲタ」である本田透さんとまったくいっしょですよ、といいたくなるわけですが。
ちなみに、藤沢さんと二村さんの年収を比較しているところが面白いです。年収が高かろうが低かろうが、顔が可愛かろうが不細工だろうが、意見の成否にはまったく関係ないということはあたりまえの事実だと思うのですが、この人は「どうせ非モテやオタクやブスがいいがかりを付けているだけだ!」と処理することによって自分を納得させているようです。まあ、よくあることです。
ここからは恋愛工学生が金や容姿といった男同士の社会(ホモソーシャル)における「パワー」を重視していることが読み取れるように思います。なんのことはない、金や容姿に最大の価値を置いているのは、女性たちではなく男性たち自身であった、ということですけれど。
ことほどさように恋愛工学は非モテ的です。あるいは恋愛工学を実践している本人たちは「自分は非モテを脱却してモテる男になったのだ!」と考えているかもしれませんが、その考え方の本質が非モテ的なので、以前にも書いたように、ただの「妄想男子」が「妄想加害男子」にパワーアップしたに過ぎません。より迷惑になったわけですね。
ちなみに、女性に対する「ディス」や「ネグ」がほんとうに効果的なのか、疑問視する意見もあります。
清田 そうそう。で、これの何が弊害かって、確かに会話は発生するかもしれないけど、コミュニケーションがまったく成り立たない、という点で。表面的には「話をしている」ように見えるんだけど、これって要するにただ“戯れてる”だけであって、「相手を知り、自分を知ってもらう」というやりとりでは全然ないでしょ。青柳 確かに戯れですね。男性がネグって、女の子が「え~、ムカつく~」と反応して、それを見て男性が喜ぶってところまでがワンセットみたいになってる感じもありますし。佐藤 でも、男はそれを「会話が盛り上がってるぞ!」と認識するんだよなあ。単に人として向き合うような会話ができないだけだと思うけど。青柳 例えばキャバ嬢なら仕事としてそれをやるし、キラキラ系の女子も「接待役」を演じるスキルが備わっている。ネグを受ける女の側からしたら、一種の“様式美”につき合ってるみたいな感覚もあるんですが……。佐藤 アイドルやタレントも同じだよね。なのに男はそれを「盛り上がった」と捉えている。さらに、テレビを見た視聴者がネグ的コミュニケーションを“いいもの”として認識し、日常のシーンでそれが再生産されていくとしたら……マジで地獄のスパイラルだよね。
しかし――そう、ここが重要なのですが、恋愛工学生たちはそもそも女性との「コミュニケーション」を求めているわけではないのです。かれらはただセックスができればいいだけで、女性の内面と向き合いたいとは考えていません。
その証拠に、恋愛工学において女性の内面はまったく問題にされません。ほんとうは女性たちは男性たちと同じくひとりひとり異なる内面と問題を抱えているはずですが、恋愛工学においては女性はただ「女」という生物としてのみ扱われます。
区別があるにしても、それはただ「中の上」とか「Aランク」といった階級があるだけです。寒々しい認識というほかありませんが、恋愛工学はそもそも女性と心の交流をしようとは考えていないのです。
そういう意味では、かれらはそもそも「コミュニケーション」という快楽を知りませんし、求めていません。
かれらにとっての快楽とは、単に「よし、今月は中の上以上の女を3人落としたぜ!」といったナルシシズム的な自己満足、そしてその結果を自分たちのホモソーシャルな社会において評価してもらうことに過ぎないのです。
つまり、恋愛工学生とはナルシシストなのです――しかし、おそらく大半の恋愛工学生は教祖である藤沢数希その人ほどナルシシスティックにはなれないでしょう。藤沢さんの自己完結ぶりはすごいものがあります。
そのことが端的にあきらかになっているのが、藤沢さんとAV監督の二村ヒトシさんの対談です(https://cakes.mu/series/3437)。これについては、「二村ヒトシと藤沢数希の対談が全く噛み合ってなくて面白かった」と題する匿名ダイアリーの意見が面白いので、それを引用します。
藤沢数希は「出来るだけ沢山のいい女の膣に射精することがオスとしての勝利」二村ヒトシは「性的な相性のいい相手と最高のセックスをすることが人間の喜び」と主張しているように見えて、最終目的地が余りにも違うから話が噛み合わないんだと思う。これはもう、どっちが正しい間違ってるという話じゃなくて、セックスの趣味の話なんじゃないか?
まったくその通りだと思います。もっというなら、「セックスの趣味」という次元にとどまらない価値観の差があります。藤沢さんは女性との間に「コミュニケーション」を求めない。相手の「内面」とのコンタクトを望まない。極端にいうなら、女性を単に行動に対し反応がある物体のように捉えているのではないかと。
そういう意味では、藤沢さん自身は恋愛工学の信徒とは違って、たしかにミソジニーを抱えてはいないのかもしれない。かれにとって女性とは単に「食品」であって、そもそも内面を抱えた存在として認識していないということ。
憎しんだりさげすんだりするものですらない。かれが興味があるものは単に自分であって、女性の内面なんてまったく関心がないのです。
だからこそ、藤沢さんの描くセックスはつまらない。それはセックスのように見えるけれど、じっさいには「女性の肉体を使ったオナニー」の光景でしかないからです。
つまり、藤沢数希はナルシシズムの人であって、エロティシズムの人ではない。オナニーの人であって、セックスの人ではない。そういうことになります。
対する二村ヒトシは、これはもう端的にセックスの人です。だからふたりの話はかみ合わない。
藤沢 女性の場合、男性の視界に入らないのは下位のせいぜい2~3割だと思うんですが、確かに、性欲を持て余している女性も多いかもしれませんね。二村 いや、そういう“階級”の話じゃないし、モテる男になって抱いてやればすむという問題でもない。僕が「人妻との五反田でのセックスは関係が対等だから、藤沢さんの小説の中で唯一エロい」、つまり、それ以外の場面はセクシーじゃないと言ったのは、セクシーさというのはコントロールが不能で、おたがい支配できないのに波長が合ったときだけ匂う空気だからです。
なるほど、「おたがい支配できないのに波長が合」うということはエロティックなセックスの条件でしょう。完全に支配できてしまっているなら、それは単に人形を抱いているに等しいわけですから。
藤沢さんは人形を抱いているだけで満足できる人なのだろうけれど、二村さんは満足できない。人間を抱きたい、人間に抱かれたいと思う。そこにふたりの差はある。
ちなみにぼくもあきらかにエロティシズムの人で、だからこそ文学や映画に興味があるわけです。そこにある相互にコントロール不可能な他人同士がぶつかりあい、まじわりあうエロティシズムにたまらない興奮を感じる。
そういう意味でぼくは「スケベ」です。ぼくが文体のエロティシズムにこだわるのはそういうこと。ある種の文体のかもしだすエロスに陶酔することが好きなのです。
で、そういう文脈でいうと、藤沢さんはたぶん「スケベ」ではない。人間が好きではないし、そもそも興味もない。ひたすら自分のことに興味を抱いている。
かれがホリエモンと気が合うのはよくわかる気がする。堀江さんも他人の内面にあまり興味がなさそうですからね。堀江さんの場合は、ロケットとか宇宙とか、そっちのほうに興味がいくわけですけれど。
人間が好きで女性が好きで根が「スケベ」な二村さんと、自分しか好きではない「ナルシシスト」の藤沢さんでは話が合うわけがありません。根本的に話はすれ違ってしまいます。
そしてたぶん、多くの恋愛工学生たちは藤沢さんほど割り切れていないでしょう。だから、ミソジニーに走るのです。女性に内面があることを知っているからこそ、女性を憎んでしまう。さらに女性への復讐として女性を支配しようとする。
そういう意味では、恋愛工学生たちはとても人間的です。道徳的によいことではないかもしれませんが、ぼくは端的にさげすむ気にはなれません。かれらは決して「モンスター」ではないのです。
相手の内面に対して徹底的に無頓着なまま女性を食い物にしていく「モンスター」もたしかに実在します。しかし、大半の人はそうではない。ある記事では、このように書かれています。
子供の残酷さを抱えたまま、大人の欲望を消化していくということは、何て難しい事なのでしょうか?誰かを傷つけて、搾取することのむなしさに、男も女も早く気付かないと、「愛」があまりにも遠すぎて、結局誰も救われないように思います。搾取している側も同じように何かを搾取され、消耗するからです。そこが、「モンスター」と「心ある人間」の大きな違いなのです。
人をただ利用しつづけ、搾取しつづければ、いいようがないむなしさを感じるのが普通の人間なのです。恋愛工学はそこまではフォローしてくれない。
その点が恋愛工学の画竜点睛を欠くところかもしれません。本田透さんなら、「だから男は萌えるべきなのだ」というところでしょうが。
ぼくは恋愛工学が単純に悪の理論だとはいいません。しかし、それはモンスターならざる「心ある人間」をどうしようもなく傷つける。それは事実だと思います。
いやあ、面白いですね。根が「スケベ」な「心ある人間」のひとりとして、ぼくはそう感じるのです。全然モテないけれどな!
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