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urazenさん のコメント

自力で壊せない壁にぶつかった時に引き返すのは敗北者。壊せずに諦め立ち止まるのは凡人。諦めずに試行錯誤を続けられるのが努力家。努力を重ねて壁を越えた結果を出せた人は成功者。成功者の中でも特に優れた結果を出せた人が天才。天才や成功者に到達できなくても、努力家でありたいものだ。「諦めたらそこで試合終了ですよ」は、名言だと思う。
No.12
140ヶ月前
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 だれでも一度や二度は経験があるだろう。ある優れた職業人や、芸術家や、スポーツ選手の抜きん出た能力を目の前にして、自分にはどうあがいてもこうはできない、才能が違いすぎる、とうなだれたことが。  こういう失望はしばしばその人の活力を根こそぎ奪い去る。いままで積み上げてきた自信が一瞬にして崩壊するほどの衝撃なのだ。デイヴィッド・シェンク『天才を考察する』によると、これは「グレートネス・ギャップ」という感覚である。  ぼくたちの大半は人生のどこかでグレートネス・ギャップと遭遇し、そして自分が凡人であることを受けいれる。仕方ない、結局のところ、「あいつら」は自分たちとは違うのだ、と。しかし、ほんとうにそうだろうか? かれら選ばれた天才たちは生まれつき非凡な才能に恵まれていて、大した努力もなく世界の頂点に立っているのか?  そういうふうに考えるべき証拠はたくさんある。幼い頃から傑出した才能を発揮したヨーヨー・マを見よ。あたかもその額に不可視のしるしが刻まれているかのように、その天才は歴然としているではないか。  六歳にして八桁の割り算ができたフォン・ノイマン、十五歳にしてチェスのグランドマスターになったポルガール。これが生まれつきの才能でなくて何だろう? ところが、そうではないと考えるべき証拠もある。  シェンクによれば、ヨーヨー・マはそれこそ生まれながらにして音楽漬けの環境に育った。父も母も音楽家であり、姉も幼少期から音楽教育を施されていた。かれは最高の両親から最高の音楽教育を受け、バッハやモーツァルトを四六時中頭の中に刻まれていたのだ。  もしかれがべつの環境に育ったらどうだっただろう? 想像するしかないことだが、才能の発現がもう少し遅れていてもおかしくない。あるいは、ついにそれは目ざめずに終わったかもしれない。  「天才のなかの天才」ヨハン・アマデウス・モーツァルトにしてもしかり。一般に「生まれながらの天才」の代名詞として考えられがちなこの「神童」は、じっさいには子供の頃から膨大な時間をかけて練習していた。  傲慢で早熟な生来の天才、というイメージは後世作られたもので、かれ自身は自分の能力が練習のたまものであると自覚していた。つまりは、一般に生来の才能と考えられがちな早熟な才能も、必ずしも遺伝子の作用だけで説明されるものではないのである。  生まれついての適性の差がないわけではないだろう。ひとにはあきらかに環境に責任を追わせられないだけの個性の違いがある。しかし「生まれながらの才能」という概念を疑ってみる必要はあるのではないだろうか? ほんとうに遺伝子にすべての原因を求めることができるのかどうか、考えてみるべきなのでは? 著者はそうささやく。  おそらく著者はべつに「才能より努力」といいたいわけではないだろう。また、だれもが天才になれるということでもない。そうではなく、そもそも才能という概念そのものが、きわめて不たしかな実証性しか持っていないということなのだ。  世の中には、天才としかいいようがない偉大な人々がたしかにいる。しかし、かれらはなぜ天才と呼ばれるのだろう? いうまでもない、天才と呼ぶにふさわしい業績を挙げたからだ。つまり、天才とは、結果から遡行して発見される性質の概念なのである。  ある人物が並外れた成功を遂げればそのひとは天才だということになるし、失敗すれば、あるいは途中で挫折すればそのひとには才能がなかったのだといわれる。真の天才は幼少期から抜きん出ているように思える。ところが、たとえばマイケル・ジョーダンがそうであったように、幼い頃には特別な才能を示さない「天才」もいる。  これはどういうことだろう? 途中から天才を発揮しはじめた? それとも、途中まで手を抜いていた? 才能を生来の固定されたものと考える限り、説明がつかない。  才能についての考え方を変えるべきだ、とシェンクは示唆する。才能とは、固定したものではなく、常に変化していくプロセスそのものなのだ、と。  つまり、生まれつきの天才がいて偉大な業績を挙げるよう宿命づけられているのではなく、決然たる意思をもって成長していく過程が天才を生み出していくのだということ。あらかじめ定めされた道があるのではなく、踏み出す一歩一歩が道を形づくっていくのである。  この考え方に強い反発があることは想像がつく。自分は努力したが、それでも望みは叶わなかったというひとが大勢出てくるだろう。しかし、そういうひとは本当に最善の努力を尽くしているだろうか? ここでいう「最善」とは、文字通りの最善である。  決然たる意思をもって日々自分を批判し、現在の状況を否定してさらなる高みだけを見つめること。それを何年、何十年にわたって続けること。それが継続的成長の必須要素だ。くり返すが、生まれながらの適性の差がないわけではないと思う。しかし、「意識の差」は本来あったいくらかの差をあっというまに拡大してしまうのではないか。  ぼくたちの大半が凡庸な業績しか挙げられないのはなぜだろう? 思うに、世の中の大半のひとがじっさいの限界のずっと手前でグレートネス・ギャップに遭遇し、失速してしまうのだ。自分のはるか上をゆく才能に出会うと、自分はここまでだと思い込み、自ら成長にブレーキをかけてしまうのである。  あいつは違う、とぼくたちは考える。自分はこんなに下手くそなのに、あいつは軽々とやってのけている。あいつは何もかも違う。そう、あいつの遺伝子は優秀なのだ。  そうだろうか。そもそもぼくたちがもっている遺伝に関する古典的な(メンデル的な)理解は間違えているとシェンクはいう。現代遺伝学では人間を「遺伝子(Gene)+環境(Environment)」の結果と考えることはできず、むしろ「G×E」と見るべきだと。  長くなる上にぼく自身どこまで正確に理解できているかおぼつかないからこれ以上の説明はやめておくが、とにかくこの説に従うならば「遺伝子が決めた運命」というものは存在しないことになる。  この「G×E」説はどのくらい信憑性があるのだろう? それはわからない。本書の内容をすべて批判的に検証することはぼくの手に余る。しかし、ぼくは思うのだ。「生まれつきの才能」というものが実在するにしろ、しないにしろ、ぼくたちは「才能」という概念を見なおして見るべきなのではないだろうか、と。  それはあまりにも都合のいい考え方だ。本来、数学者として大成することと、陸上選手として成り上がることと、セールスマンとして活躍することは、それぞれ全く別の能力を意味しているはずなのに、ぼくたちはそれらをすべて「才能がある」と見てしまう。  しかも、ほかのことにもいえることだが、ぼくたちは目立つものだけに注目して目立たないものは無意識に排除する。まさに才能としか思えないような華麗さだけに注目して、その裏にある膨大な努力や強い意思を無視しがちなのだ。  もちろん、努力すればだれもがイチローやアインシュタインになれるわけではないだろう。しかし、多くのひとが初めから自分にはできるわけがないと思い込み、その眠れる能力の限界の手前で足踏みしてしまうこともまた事実なのではないかと思う。  イチローは努力に努力を重ねた末、ヒーローになった。しかし、同じように膨大な努力を費やしてもそうはなれない者もいる。これは生来の才能の差と考えてはいけないのだろうか。たぶんいけないのだ。  まず注意するべきは「同じよう」に努力したように思えても、決してほんとうの意味では「同じよう」ではないということである。当然、そこには質的量的な差があるはずであって、それを検証しないまま、「同じように努力してもダメだったひとがいるはずだ」と語ることは意味がない。  生得か、環境か。才能か、努力か。この二分法を乗り越えるためには、より客観的に「才能」を見る目を鍛えることが必要だ。グレートネス・ギャップに打ちのめされている場合ではない。ぼくたちのだれもが、どこまでかはわからないにしても、とにかくもっと先まで行けるかもしれないのである。
弱いなら弱いままで。
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