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高い能力を持って大きな成果を上げた人を天才というわけですが、うらやむ人はその能力差だけに注目してガッカリ来てしまう。自分のなすべきことが分かっている人は、その才能をいかにして引き出しどのように使って成果を上げたかに着目する。
なすべきことが分かっているが見とうしの立たない人は、天才のダメだった部分を読んで自分を慰めるか、深く考えるのをやめる。
才能という概念を見直すならば、努力という概念も見直さなければならないと思います。
努力というものが何らかの見返りを確実性を持って与えてくれるということを盲目的に信じるのは、それこそ過去の概念に囚われている言うべきではないでしょうか。
もしかしたら既に才能という概念は見直されていて、努力という概念だけがステレオタイプとなってしまっているのかも知れませんね。
しかしながら、人は誰しも何か一つは才能を持っているんだと思う。才能が無い人って言うのは希望を抱くことさえできないですからね。
一般人はどこかで努力を怠る。つまり努力し続けることができる者が天才なのだ。
天才や才能というのは、他者から送られるレッテルなのかもね。
周囲の環境や金銭的な面の差異あるけれども、
その分野に対して本人が愚直に取り組んだ姿勢が他の人を寄せ付けない素晴らしい成果を成し遂げた。
その状況について、第三者が天才とか才能があると「言い訳」する。
外部から受け取った感情は形にしないと都合よく消化できないから諦めと表現したのは上手いと思う。
確かに努力や環境も重要だけれど、結局は生れ持っての才能の差というのが物をいうと思う。
天才というのは、凡人が3~5の事を学んで、今までの経験を活かして7~8割り理解、プラス後は長年の努力で9~9.5身に着けるのに対し、天才は05~1割り学んで、後は生れ持っての才能で10割以上の実力を出すんだよ。
これは特化型天才にも言えることだ。後、才能は遺伝するかどうか知らないが、性格は遺伝する。より確実にいえば、特化型の大半は発達障害の可能性がある。現に俺もある昭和に活躍した文化人の曾孫に当たるが、母も祖母(祖父は外から人なので除外)も明らかに発達障害をもっており、そしてなにより曾祖父の逸話や著作を見る限り明らかに発達障害の疑いがあった。だから人付き合いも下手で、性格にも難があったが、それらは業界における多大な功績と紫綬褒章の授与や業界団体のトップという名誉で補ってた。
自力で壊せない壁にぶつかった時に引き返すのは敗北者。壊せずに諦め立ち止まるのは凡人。諦めずに試行錯誤を続けられるのが努力家。努力を重ねて壁を越えた結果を出せた人は成功者。成功者の中でも特に優れた結果を出せた人が天才。天才や成功者に到達できなくても、努力家でありたいものだ。「諦めたらそこで試合終了ですよ」は、名言だと思う。
同じ努力をしても結果が出せない人は質の低い努力しか出来ないような奴ということか。
万人に伝わる「最高品質の努力の仕方」が存在しないかぎり、結局は才能ということに行きつくと思う。
確かに努力すれば先には進めるけど、努力すればするほど時間は減っていくので、自分がどの分野でどこまで行きたいかは考えるべき。
努力はやろうと思えば誰でもできる、成功できるかは才能しだい。
最後から
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という福沢諭吉バイアスにみなさん侵されています。先天的にキムタクみたいな顔に生まれたら人生変わります。遺伝子よりも努力を過大視するのは日本独特の思考様式で、そのおかげで競争が激しく、消費者にとって安心できる社会が実現しているとも考えられます。