範馬刃牙 37 (少年チャンピオン・コミックス)

 問う。「強い」とはどういうことだろう? 格闘技無敗のチャンピオンを見てぼくたちは思う。強い。俊敏で獰猛な動物を見て考える。強い。世界最強の軍隊を観察した時も感じる。強い。しかし、「強さ」とはほんとうにただそれだけのことだろうか? 単なる体格や腕力、あるいは火力の問題にすぎないのか?

 そうではない、と何かがささやく。ただそれだけのことならば、決して強さに憧れなどしない。真の「強さ」とは、心の問題であるはずだ。いかなる試練にも折れないしなやかな心。それを指してひとは「強い」というのではないか。

 それでは、そのような意味での強さを手に入れるにはどうすればいいのだろう? 先日、プロゲーマー梅原大吾の本を読みあげた。そこには、ほんとうの意味での「強さ」にいたるまでの修行の日々が綴られていた。強さはひとを解放する。修行の果てに真の強さを手にいれた梅原はとても自由に見える。

 それは腕力や、武力が決して与えてはくれないものだ。肉体を鍛えることや格闘技を習ことが無意味だといいたいのではない。しかし、そのような「技」の鍛錬の果てには「技」を超えた境地がなくてはならないはずだといっているのだ。その修練の日々を通し少しも人間的に成長しないのであれば、やはり「強くなった」とはいえない。

 強さとは、心。折れず、歪まず、常にすこやかな心をいうのだと思う。『はじめの一歩』の主人公、一歩はやはり抽象的な「強さ」を目指している。そして日本チャンピオンとなり、世界的なボクサーとなってなお、かれは「強くなった」という実感を得るところまで行っていない。

 練習の日々を通し、かれの心は鋼と鍛えられているはずだが、それでもなお、かれは「たどり着いた」とは考えない。「強さ」とはほんとうはどこにもない蜃気楼に過ぎないのかもしれない、と思う。

 いくら試合で勝ったとしても、それだけではほんとうに強いことにはならない。試合は、あくまで「試し合い」である。鍛えてきた実力を試す場であって、そこでだけ勝てば強いとはいえない。ほんとうに強いひとは、いつも、どんな時も強いはずなのだから。

 それならば、どうすれば強さを証明できるのか。ほんとうに強いひとは、そもそも、自分の強さを証明しようとしないだろう。何かのきっかけで、あたりまえの日常が崩れたとき、そのひとの強さが垣間見える。たとえば、災害にあったとき。難病が降り掛かってきたとき。あるいは大切なものが失われたとき。初めてそのひとが強いことがわかる。そういうものだと思う。

 だから、ほんとうに強いひとはあなたのとなりにいるかもしれない。そしてそのひとが強い人であるとだれも気づいていないかもしれない。強いひとは、きっと、あたりまえの日常をあたりまえに生きているように見える。しかし、そのあたりまえさは、恐ろしく濃密であるはずだ。

 板垣恵介の『範馬刃牙』シリーズに範馬勇次郎というキャラクターが登場する。作中、最強として設定されたキャラクターだ。かれはその他のキャラクターとは別次元の実力を誇り、傍若無人な行動を貫き通す。

 この長い物語のなかで、強さとは「わがままを叶える力」と定義されているから、勇次郎は、自らの力によって、だれよりもわがままであることを叶えているといえる。しかし、ぼくは勇次郎に「心の強さ」を感じない。ただ単にひとより強い腕力を与えられただけのキャラクターであるように思う。

 仮に、勇次郎より力が強いキャラクターが出てきたなら、勇次郎の魅力は消し飛んでしまうだろう。勇次郎の強さとは、つまるところ、その程度のものである。その証拠に、強さを究めれば究めるほど、勇次郎は退屈になっていく。範馬勇次郎の強さには矛盾がある。

 最も「わがままを叶える力」をもつものが最も強い。この考え方を突き詰めていくと、最終的には絶対最強の人間とは、ただのわがままな子供であることになってしまう。だれにも妨げられない万能感をもった子供。つまり神の力をもつ幼児こそ、真の最強ということになるだろう。

 しかし、ぼくはそのようなキャラクターに格段の魅力を感じない。ぼくが思う強さとは、むしろ「万能ではないことを受け入れること」から始まる。「決して思い通りにならない世界」で、腐らず自分にできることを行い続けること。そこからしか、真実の強さは得られないと思う。

 そういう意味では、強さと弱さとは裏腹だ。「自分は弱い」と心底から認めるところから、強さは出発する。だから、ほんとうに強いひとは、弱いひとに優しくなれるのだと思う。自らの強さをひけらかし、弱者を見下すような強さは、まだそれほど強くない。

 強いとはどういうことだろう? いつの日かわかるときが来ることを期待して、ぼくもまた、心の階段を登っていきたい。