ニューハートDVD-BOXI

 「パクリ」という言葉が嫌いだ。その軽薄な響き、その乱用のされ方、何もかも気に食わない。特にうんざりさせられるのは、大して似ているとも思えない作品が「パクリ」と認定されて非難されること。

 この世に純粋にオリジナルな作品がない以上、どんな作品も先行する作品に似たところがある(ように見える)。だから意識して「パクリ」を見出そうと思えばいくらでも見つかって当然だ。

 しかし、そんなことを気にしていたらだれも新作を作れないだろう。やたらに「あれもパクリ、これもパクリ」と言ってまわるひとは「オリジナル」という概念をどう捉えているのだろう? ぜひ見解を伺いたいものである。

 今日、ネットをうろついていたら韓国ドラマの『ニューハート』が日本ドラマ(原作は漫画)の『医龍』のパクリだという意見を見かけた。しかし、どう考えてもパクリ認定できるほどの類似性があるとは思えない。

 このふたつの作品で共通しているところといえば主人公が心臓外科手術の天才であることくらい。もちろん、チェ・ガングクと朝田龍太郎では性格も描写もまったく違うし、『ニューハート』の物語は先へ進むほどに『医龍』とはまったく異なる展開を見せる。この程度でパクリ認定されるようなら、医療ものそのものが作れなくなるのではないか。

 まあ韓国憎しでいちゃもん付けているだけのひともたくさんいるのだろうけれど、何が問題で何がそうでないのか判断できないひとはそれ以上に多いのだろう。たしかにあからさまな盗作は批判されてしかるべきだとぼくも思うし、盗作といえるかどうか微妙なラインの事例もある。

 しかし、少なくともぼくたち一視聴者が鵜の目鷹の目で「パクリ」を探してまわることに建設的な意味があろうとは思われない。最悪の場合、世にもいいかげんな「あれもパクリ、これもパクリ」的な批判は、作り手を萎縮させ、業界全体をつまらなくしてしまうかもしれない。たいていの場合、魅力ある作品は先行する作品からおもしろさのエッセンスを受け継いでいるものだからだ。

 少しでも似ていたらパクリ、という認定の仕方はだれも幸せにしない。「オレはこんなにくわしく知っているんだぞ」と自慢したいのでなければ、安易なパクリ認定は避けるべきだろう。結局のところ、それは自分の知識と識見の狭さを証だてることにしかならないと思われる。