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renrenさん のコメント

まぁ、ぶっちゃけ自己満足でしか正義は成り立たないわけで、それでいいんじゃないかと。
No.44
102ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 ただいま発売中の『アニメスタイル』第二号に、映画『009 Re:Cyborg』を撮り終えたばかりの神山健治監督のインタビューが載っている。これがおもしろい。  神山監督は日本のアニメ監督のなかでも最も多くインタビューに応じているほうだろう。おかげで何を考えて作品を作ったのか、非常に細かいところまで知ることができる。もちろん、作品解釈にあたっては作家の言葉がすべてではないが、なかなかに難解な『009』を解釈しようとするとき、作り手の言い分が頼りになることもたしかだ。  しかし、ここでは作品の「謎解き」に関する情報を扱うことはよそう。ぼくがここで取り上げたいのは作品のテーマである。『009』を見たひとは、この映画のテーマが『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』、『東のエデン』と続く神山作品と共通していることに気づいたはずだ。  それはつまり「正義」と「人間への絶望」という古くて新しいテーマである。このテーマはそれこそ『サイボーグ009』の時代には扱われていたものだが、神山はいまの時代にその答えを出そうと模索している。  「正義」はわかる。「人間への絶望」とはどういうことか。それはつまりヒーローが救おうとしている民衆が救うに値しない存在なのではないかという疑念だ。  『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』ではクゼ・ヒデオというヒーローが登場し、民衆を導くが、かれは安易に流され、主体性を持たずに行動する人々の愚かしさに絶望する。水が低きに流れるように、ひとの心も易きに流される。それは人間のどうしようもない本質であり、解決しようがない問題だということ。その問題がここで初めて提示されたのである。  これはまさに「人間がいるかぎり、悪がなくなることもない」という『サイボーグ009』と同じテーマであり、正義を貫けば貫くほどに愚かな人々のなかで孤立してゆくヒーローというイメージは『東のエデン』へと受け継がれることになる。  『東のエデン』の主人公滝沢朗は「王子」として人々を導き救おうとするが、まさにその救おうとした人々によって裏切られ、記憶を捨てる。「なぜヒーローだけが自己犠牲しなければならないのか?」「人々を救いながらかれらから糾弾されるヒーローという役割はあまりに割に合わないではないか?」という問題がそこでは描かれていた。  もちろん、それでもなお、割に合う、合わないを度外視して、人々のために戦うのが真のヒーローであるのかもしれない。しかし、そのことはそう済ませるとしても、それではヒーローに救われる「我々」の側の問題はどうすればいいのか。  つまり、一方的にヒーローに救われながら、かれらを犠牲にしてのうのうと生きてゆくだけでいいのか。この問題はたとえば同時代の『まおゆう魔王勇者』などが扱っている。  『まおゆう』では、救うに値しない人々を救うために戦う孤独な勇者を助けるために、人々が「自分も勇者にならなければならない」と立ち上がっていく。それはある意味で非常に感動的な物語である。しかし、神山監督はおそらくそういった物語にリアリティを感じられないのであろう。それほどにかれの絶望は深い。  そこで『009 Re:Cyborg』である。この物語において主人公、島村ジョーは、神のメッセージを思わせる謎の「彼の声」に抗うため、進んで自己犠牲する。しかし、かれの行動はだれの目にもふれず、したがってだれにも伝わっていかない。  なぜ、このような描写になったのか。島村ジョーの行動が多くの人々を奮起させ、変えていく、そういう描写ではだめだったのか。神山監督はいう。「正義は伝播しない」「悪意だけが伝わってゆく」と。  『攻殻機動隊』でSTAND ALONE COMPLEXという概念を生み出し、人々の心のなかで伝わってゆくものを描いた神山監督だが、その後の10年に「正義は伝播しない」と考えざるをえなかったということなのだろう。島村ジョーの戦いはどこまでも孤独で、そしてだれにも届かないのだ。  この絶望の深度は『まおゆう』の楽観的な展開とは異なっている。そして、それだけにきわめて現代的である。おそらく現代にもヒーローのように自己犠牲して努力している人々はたくさんいるだろう。しかし、かれらはしばしば孤立し、中傷されて消えてゆく。  現代において人々の感情の矢面に立とうとする人々は、自分が救おうとする人々に裏切られることを覚悟で、それでもなお行動するのか、という問いに答えなければならない。これは神山監督にとっては「それでも映画を作るのか」という問いであるに違いない。そしてかれは映画を作り続けることを選んだ。  『009』の結末は、不動明が人間に絶望してかれらを焼き払う『デビルマン』の結末とは異なり、ほのかな希望を感じさせる。あるかなしかのわずかな希望。しかし、それこそがいま望みうる最大の価値であろう。  『東のエデン』にせよ、『009』にせよ、完璧な傑作ではないかもしれないが、現代という時代を考えている人間にとってはきわめて示唆的な作品である。それは国境を超えてクリストファー・ノーランの『ダークナイト』ともシンクロするテーマなのであろう。  『009 Re:Cyborg』、いまこそ見るべき映画である。ぼくたちはそこに、神山健治監督の絶望との戦いの軌跡を見ることができる。
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