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フリーザーさん のコメント

>>57
すいません.
21の方に謝ります.
さすがにその話は21の方ではないです.22,23を描いた私に対してだと思われます.

また,皆さんに聴き慣れない言葉を使いながら描いていることに対しても謝ります.
ただ,分かりやすくなるほどに嘘になる,ことは認識して下さい.
かなり,内容を端折って描いていたので,私の考えがちゃんと他人に伝わるか,は分かりません.
それでも描きたい想いを爆発させたため,このような形になってしまいました.


少しアインシュタインの擁護をさせてもらいます.その量子論を無視して考えていた電磁気学方面からの重力との統一は,カルツァ・クライン予想の形で今日,超弦理論の根幹として利用されています.また,その考えがワームホールの可能性であるアインシュタイン・ローゼンの懸橋としても受け継がれています.今観えている世界が全てではなく,新しい次元の考慮で観える世界は変わるはずだ,の思想が根幹にあります.

また,私はパスカルの言葉をもじってはいますが,パスカルの思想そのままを利用しているわけではありません.人間と人は違う存在と考えています.また,人が他の生物より偉いなどとは想っていません,同等の地位にあると想っています.少なくとも禽獣という表現はあまり使いたくないです.ただ,人間は生物以下だと想っているだけです.


>>58
私も確率解釈が素晴らしいとは想っていません.そのため擬似乱数だと言っているのだと想います.最期には自らの人間原理を成り立たせたいのだと想われます(人間原理の人間という言葉が嫌いなので,この言葉はあまり使いたくないです.人間原理とは,物理学者たちに蔓延る(はびこる)思想,哲学で,全ては人が考えたものが現実になる,といった形であり,アインシュタインの,理論故,の考えの究極の物になります.デカルトの思想が現実になるものです).そもそも,物理学者は分からない部分を確率に頼って逃げているだけです.ただ,原子論の考えを追求し過ぎると,ものの最小単位を導入せざるを得ず,確率がその最小単位に出て来てしまうということです.その最小単位の世界に至りもせずに確率に頼る考えが私も嫌いなんです.
しかし,その確率のおかげで時を越えることは,相対論よりもはるかに身近になります.テレポートはかなり現実に近付いています(私は物理を研究しています.かなり数学に依っているために,日頃の話もこのような変な形になっているだけです.).

おそらく,私の思想はニーチェの超人化の思想が近いです.ただ,それが至高とは想えないのです.むしろ身近な日本の侍のような精神の方が打ち勝っている,と私には想えただけです.そこに安住するのが嫌なので日々葛藤しています(職業病と言った方が好いのかもしれません.).何が正しいのか全く分かりません.それでも自ら抱いた夢を叶えるために努力しているだけです.ただ,その夢である意志が強い支柱になり過ぎているように私も想います.侍の精神が今の限界であり,それによっている感が私にも強いため,白痴のように他人には映り,機械のようにも映るのかもしれません.


エントロピー増大則に負けないで下さい.エントロピー(情報量)に圧倒されて流される人間にはなって欲しくないんです.エントロピー増大則を破る特異点が,侍のような精神を持つ人々だと私には想えたんです.
この記事の作者さんと私の思想は似ていると想えたんです.ただ,人間に絶望する気持ちは,まだ分かるのですが,正義が分からなかっただけです.

57,58さんのような異見を唱えてくれる方が増えてくれれば少しは正義というものが一意なもの,誠の意味に近付いてゆくのだと想います.
感謝します.ありがとうございました.
(私は研究者なので,十人十色と言われても,ある程度範囲が絞られ,誠の世界が存在するはずだと考えてしまいます.人それぞれ,という言葉に逃げたくないんです.少しでも的確な意味を見出す言葉を探し出したいんです.相手の気持ちを少しでも理解できるような存在になりたいんです.)
No.62
147ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 ただいま発売中の『アニメスタイル』第二号に、映画『009 Re:Cyborg』を撮り終えたばかりの神山健治監督のインタビューが載っている。これがおもしろい。  神山監督は日本のアニメ監督のなかでも最も多くインタビューに応じているほうだろう。おかげで何を考えて作品を作ったのか、非常に細かいところまで知ることができる。もちろん、作品解釈にあたっては作家の言葉がすべてではないが、なかなかに難解な『009』を解釈しようとするとき、作り手の言い分が頼りになることもたしかだ。  しかし、ここでは作品の「謎解き」に関する情報を扱うことはよそう。ぼくがここで取り上げたいのは作品のテーマである。『009』を見たひとは、この映画のテーマが『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』、『東のエデン』と続く神山作品と共通していることに気づいたはずだ。  それはつまり「正義」と「人間への絶望」という古くて新しいテーマである。このテーマはそれこそ『サイボーグ009』の時代には扱われていたものだが、神山はいまの時代にその答えを出そうと模索している。  「正義」はわかる。「人間への絶望」とはどういうことか。それはつまりヒーローが救おうとしている民衆が救うに値しない存在なのではないかという疑念だ。  『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』ではクゼ・ヒデオというヒーローが登場し、民衆を導くが、かれは安易に流され、主体性を持たずに行動する人々の愚かしさに絶望する。水が低きに流れるように、ひとの心も易きに流される。それは人間のどうしようもない本質であり、解決しようがない問題だということ。その問題がここで初めて提示されたのである。  これはまさに「人間がいるかぎり、悪がなくなることもない」という『サイボーグ009』と同じテーマであり、正義を貫けば貫くほどに愚かな人々のなかで孤立してゆくヒーローというイメージは『東のエデン』へと受け継がれることになる。  『東のエデン』の主人公滝沢朗は「王子」として人々を導き救おうとするが、まさにその救おうとした人々によって裏切られ、記憶を捨てる。「なぜヒーローだけが自己犠牲しなければならないのか?」「人々を救いながらかれらから糾弾されるヒーローという役割はあまりに割に合わないではないか?」という問題がそこでは描かれていた。  もちろん、それでもなお、割に合う、合わないを度外視して、人々のために戦うのが真のヒーローであるのかもしれない。しかし、そのことはそう済ませるとしても、それではヒーローに救われる「我々」の側の問題はどうすればいいのか。  つまり、一方的にヒーローに救われながら、かれらを犠牲にしてのうのうと生きてゆくだけでいいのか。この問題はたとえば同時代の『まおゆう魔王勇者』などが扱っている。  『まおゆう』では、救うに値しない人々を救うために戦う孤独な勇者を助けるために、人々が「自分も勇者にならなければならない」と立ち上がっていく。それはある意味で非常に感動的な物語である。しかし、神山監督はおそらくそういった物語にリアリティを感じられないのであろう。それほどにかれの絶望は深い。  そこで『009 Re:Cyborg』である。この物語において主人公、島村ジョーは、神のメッセージを思わせる謎の「彼の声」に抗うため、進んで自己犠牲する。しかし、かれの行動はだれの目にもふれず、したがってだれにも伝わっていかない。  なぜ、このような描写になったのか。島村ジョーの行動が多くの人々を奮起させ、変えていく、そういう描写ではだめだったのか。神山監督はいう。「正義は伝播しない」「悪意だけが伝わってゆく」と。  『攻殻機動隊』でSTAND ALONE COMPLEXという概念を生み出し、人々の心のなかで伝わってゆくものを描いた神山監督だが、その後の10年に「正義は伝播しない」と考えざるをえなかったということなのだろう。島村ジョーの戦いはどこまでも孤独で、そしてだれにも届かないのだ。  この絶望の深度は『まおゆう』の楽観的な展開とは異なっている。そして、それだけにきわめて現代的である。おそらく現代にもヒーローのように自己犠牲して努力している人々はたくさんいるだろう。しかし、かれらはしばしば孤立し、中傷されて消えてゆく。  現代において人々の感情の矢面に立とうとする人々は、自分が救おうとする人々に裏切られることを覚悟で、それでもなお行動するのか、という問いに答えなければならない。これは神山監督にとっては「それでも映画を作るのか」という問いであるに違いない。そしてかれは映画を作り続けることを選んだ。  『009』の結末は、不動明が人間に絶望してかれらを焼き払う『デビルマン』の結末とは異なり、ほのかな希望を感じさせる。あるかなしかのわずかな希望。しかし、それこそがいま望みうる最大の価値であろう。  『東のエデン』にせよ、『009』にせよ、完璧な傑作ではないかもしれないが、現代という時代を考えている人間にとってはきわめて示唆的な作品である。それは国境を超えてクリストファー・ノーランの『ダークナイト』ともシンクロするテーマなのであろう。  『009 Re:Cyborg』、いまこそ見るべき映画である。ぼくたちはそこに、神山健治監督の絶望との戦いの軌跡を見ることができる。
弱いなら弱いままで。
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