文化現象としてのBLは、男性社会の抑圧に対する怒りと裏返しになった女性ジェンダーへの苛烈な憎悪や否認やら何やらがごちゃごちゃ混ざり合っている。でも同時にやっぱりもっと単純に快楽をもたらすポルノでもあって、苦しみも何もなくただ単に萌えるものでもある。どちらか一方ではありません。BL文化にはどちらもある。そこでは「ねじれた表現」なのかそれとも単なるポルノなのか、見分けがつかないほどぐちゃぐちゃに混ざり合っていると思います。BL文化のそういうめちゃくちゃさが好きです。危うさが好き。しんどいけどやっぱり好き。こんなことだらだら書いてるわたしが何より一番ねじれてて厄介なのかもしれないけど。まあこれからも厄介なオタクとして生きていきます。
弱いなら弱いままで。
次回のニコニコ生放送のテーマを何にしようかなー、とまだ考えています。とりあえず一年分くらいのネタを考えてあるのですが、あまり大きいものを最初にやってしまうとネタ切れを起こす可能性があるし、だからといってつまらない話をしてもしかたないし、となかなか迷うところ。
とりあえずTONOさんの『カルバニア物語』にしようかなーと思っているのですが、変わるかもしれません。一応、枠は取っておいたので、良ければ聴いてください。
さてさて、今日はLINEで面白い記事を教えてもらったので、それを枕に「物語」、あるいは「エンターテインメント」とは何か、という話をしたいと思います。この記事。
この話、めちゃくちゃよくわかる、と思う。ひょっとしたら全然わかっていないのかもしれないけれど、まあ、わかる、と感じる。というのも、ぼくもやっぱりそういう意味での「厄介なオタク」性をある程度持っていると思うからです。
ここでは「ねじれた表現」と「ポルノ」が対比的に語られていて、しかもその両方を兼ね備えているのがBLである、とされているわけなのですが、ひとつBLだけではなく、「物語」とはそういうものだよね、という話をしたい。
もっとも、ここでいう「物語」とはぼくが好んで読む一群の作品を指していて、一般にいう物語のことではないわけですが。ややこしい。
わかってもらえるかな? 一般的にいって、娯楽として、快楽として消費されているエンターテインメント作品は、大いにポルノ的なものです。ここでいうポルノとは、予定調和の快楽を追求する表現、みたいな意味だと思ってほしい。
たとえば『水戸黄門』、たとえば『美女と野獣』。いや、何でもいいのですが、基本的にエンターテインメントは正義が悪に勝つこととか、愛が苦難の末に実ることとかを描く予定調和の表現なんですよね。
もちろん、ただそれだけではないからこそ面白いのですが、それでもいわゆる「王道」はやはり予定調和の魅力にある。
ただ、すぐに予定が調和してしまうとそこで終わってしまうので、そうならないように色々と試練だの苦難だのを描くわけです。そういう意味ではエンタメとは「遠回りするポルノ」であるのかもしれません。
一方で、上の記事では「ねじれた表現」と書かれている批評的、あるいは文学的、さもなければ芸術的な反予定調和の表現がある。それは現在の社会構造や人間の生のありようなどを分析し、分解し、相対化して突きつける。
それを「クリティーク(批評)」的な表現ともいえるかもしれませんが、ここでは、「アート」と呼ぶことにしましょう。ぼくが好む「物語」は、この「アート」と「ポルノ」が混然一体となって成立しているものである、と感じるのですね。
ただのポルノ、ないしエンタメではない、しかしだからといって文学とか芸術とかに分類されて澄ましているような高踏な作品でもない。アートでありながらポルノ、ポルノでありながらアート、というその危うい混交具合が面白いわけです。
まあ、普通であたりまえの作品に飽き飽きした「厄介なオタク」は喜んでそういうものを味わうわけですよ。上記記事ではBLが例に挙げられていますが、じつは男性向けエンターテインメントだって単純にポルノ的なだけではありません。
そこには「男性的な快楽」を批評的に相対化し、あるいは脱構築する作品がいくらでも見つかるのです。
しかし、ここが重要なことなのですが、「それなら、ポルノはいらないのか? アートこそが高度であって、表現はそういうものであるべきなのか?」といったら、決してそうではないのですね。
たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』はポルノ的な「男の子の物語」のエンタメ構造をぶっ壊し相対化したかもしれない。だけれど、「だから『エヴァ』は偉くて、しょせんポルノ的な予定調和のエンタメであるに過ぎない普通の少年漫画はダメなんだ」ということにはならない。
「厄介なオタク」はやはりポルノ性がないと惹かれないわけです。文学では物足りない。芸術では満たされない。しかし、だからといってただのポルノにはもう飽きている。そういうめんどくさくもこじらせた「厄介なオタク」が好むのが、ぼくが「物語」と呼ぶ表現だということ。
これは男性向けでも女性向けでもそうなのですが、ポルノとは、「隠された本音」、「社会的に認められない隠蔽された欲望」が噴出するものです。
「可愛い女の子をレイプしたい」とか「強い男に支配されたい」とか、そういう、少なくとも現代社会のポリティカル・コレクトネスの基準では「正しい」とはされないであろう「本音」や「欲望」が猛烈な勢いで表に出て来るのがポルノだといっても良い。
したがって、ポルノはアート的、クリティーク的な分析、分解では語り切れない。どう考えても「これは政治的な正しくない」、「下等で差別的な表現だ」というだけの判断で終わってしまう。
しかし、いかに差別的であろうが、それは「本音」なのであって、やっぱり「気持ちいい」こともたしかなのです。フェミニストがどんなに声高に「こんな表現があることは間違えている!」と叫ぼうとも、凌辱ものポルノはなくならない。また、少年漫画や少女漫画は価値中立的にはならない。
あいかわらず『少年ジャンプ』は古典的な「男の子の物語」を紡ぐし、少女漫画はドS男子を描く。もちろん、お偉い批評家の方々は「これは差別的だ! くだらない表現だ!」と叫ぶことでしょうが、それでもそういう表現は決してなくならない。
ポリコレだけでは決してエンターテインメントにはならないし、ただポリコレ的に正しいということだけがエンターテインメントの価値ではないわけです。このことを根本的にわかっていない批評家は多いと思うのですが……。
しかし、だからといってアート性やクリティーク性、上の記事で「ねじれた表現」とされている側面がエンターテインメントにないわけではない。優れた物語作品はアートとポルノ、クリティークとエンターテインメントの両方の要素を持っているものなのです。
だからこそ、面白い。少なくとも、まあ、色々とこじらせた「厄介なオタク」にとっては。
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