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さてさて、このブログでは既に何回か取り上げていますが、先日、映画『ゴティックメード』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を見てきました。個人的にはいずれも超絶おもしろかった作品で、両者とも天才的なクリエイターが撮ったアニメ映画には違いないんですが、比べてみると思想というか方法論の違いが露骨にわかっておもしろい。
『ゴティックメード』の監督(及び原作、脚本、原画、キャラクターデザイン、その他いろいろ)である永野護はほんとうはひとりで作りたいんだと思うんですよ。さすがに劇場映画をひとりで作ることは不可能に近いからひとの手を借りているけれど、理想としてはひとりで作りたい。永野護というオリジナルを映像世界に刻印したい。『ゴティックメード』はそういう強烈なエゴを感じさせる作品に仕上がっている。
画面を見ているとあきらかに絵が永野護っぽいところ(というか、まさに永野護そのもの)としか思えないところと、そうでもないところが分かれていて、「ああ、ほんとうは永野さんとしてはそういうブレもなくしたかったんだろうな」と思わせたりする。
それでも全体としては恐ろしく作家色の強い作品に仕上がっています。どこからどこまで永野護、ひとりの天才のエゴが充溢する傑作といっていいかと。初見のひとにも優しい王道の物語も永野護ならば、初見のひとは何が何だか分からないであろう膨大な設定の叩き込みも永野護。最後の5分で一気に謎が解ける(?)破格の構成も永野護。まさに「永野映画」としかいいようがない作品です。
一方の『ヱヴァQ』ですが、こちらは庵野さんは「総監督」というポジションで、もちろん作品のすべてを最終的にコントロールしてはいるでしょうが、ほかのひとに任せたところも多くあるだろうと推察できます。
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コメント
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エヴァは旧作のころはかなり作家性の濃い作品だったと思うのです。でもそういう作家性の濃さで評価されるエヴァ空間から庵野監督は脱出したかったのでないでしょうか
作品というものはどんなジャンルであれ、
作者が自分の思想とか考え、カラーを客に問いかけるものですね。
映画ってものは特にとっつきやすいぶん反応も敏感。
まったく方向性が違うものでも受け入れる土台のある日本ってのはすごいね。