作家・団鬼六の業績をまとめた『花は紅』という本がある。団鬼六といえばいうまでもなく日本の官能小説の礎を築いたSM文学の巨匠なのだが、いまとなってはあまり読まれない作家であるかもしれない。

 ただ、映像化された作品はいまなおNetflixなどで見ることができ、その名を知る者は少なくないだろうと思う。

 で、この本のなかに団鬼六とマルキ・ド・サドの対称性について書かれた一文がある。曰く、サドは女の尻を叩くとき、己のなかの宗教的桎梏を見つめている。それに対し、団はまさに女の尻を見ているのだ、と。

 この違いは村上龍も指摘しているところで、サドにおいては明確に存在する神という概念を持たない団鬼六のSM小説は、何ともあざやかでしなやかで、そして豊穣である。

 あえていうならサドは観念的で、団は官能的なのだ。ぼくはサドの不毛と、団の豊穣の、その両者につよく惹かれるものがある。

 日本のエロティシズム