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時の波濤と砂の城。そして「ハイ・プラトー・エクスペリエンス」。
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時の波濤と砂の城。そして「ハイ・プラトー・エクスペリエンス」。

2020-07-25 20:50
     どもです。先日、陰キャをやめて陽キャとして生きることを決意した海燕です。このまま行くと光属性のリア充になるまであとわずかといえるでしょう(?)。

     具体的に何が変わったかというと、「希死念慮(死にたい気持ち)」が消えてなくなりました。「将来への不安」とか「過去への悔恨」もどこかへ行ってしまいました。そして「強い怒り」や「暗い憎しみ」も、また。

     結果として「心の平穏」だけが残り、「静かな丘のうえにたたずむような気持ち」で日々を生きています。まあ、完全に感情の揺らぎがなくなったわけでは(もちろん)ないけれど、それでも激しい気分のアップダウンはほぼなくなりました。

     いまはもう、いわゆる「ネガティヴな感情」はほとんど感じません。いや、当然あしたにはどうなっているかはわからないわけですが、その「あした」の心配まで背負って生きることはどうやらなくなったようです。

     まだまだ「悟り」とまでは行かなくても、いままでの自分から考えると格段の進歩といえるのではないでしょうか。心理的な意味での「マイナス」がほぼなくなったというところです。ここまでたどり着くまで長かった。じつに40年もかかっていますからね。

     ぼくはだいたい幼稚園児の頃から心配性でネガティヴな性格の子供で、そのためにいろいろな損をして生きてきたのですが、ようやく「人生の方向転換」に成功したかもしれません。たとえ一時的なものに過ぎないかもしれないとしてもね……。

     そういうわけで、とりあえずそこそこ幸せに暮らしているのですが、ここに「大きなプラス」、つまり何らかの「素晴らしい至福」や「大いなる歓喜」を加えるにはどうすれば良いかと考えています。

     たとえば「人間性心理学」の開祖として知られ、「欲求五段階説」で有名なマズローは、「人生は素晴らしい!」としみじみと感じ入るような瞬間のことを「至高体験(ピーク・エクスぺリエンス)」と呼んでいます。

     さらにこの「至高体験」が長きにわたって続くと「高原体験(ハイ・プラトー・エクスペリエンス)」と呼ばれる状況になるのだとか。

     これは「人間の第六の欲求」である「自己超越」と密接に関わった概念で、ここまでたどり着くと人は人生の価値、そして意味を深々と悟ることになるらしいです。

     ぼくもそこまで行きたいなあと思ったりします。もっとも、マズローによると「至高体験」は求めて得るものではないらしいのですが。

     ちなみに、このマズローの思想から派生したのが「個」を超えた精神を仮定するいわゆる「トランスパーソナル心理学」です。

     ただ、そこまで行くとかなり怪しげというか、スピリチュアル風味な世界に突入します。いやまあ、まったくのインチキとも思わないけれど、眉に唾を付けておいたほうが良さそう。

     もっとも、至高体験やチクセントミハイの「フロー」はどうやら実在する観念であって、何やら幸福の実感や極度の集中と関係があるらしい。

     この種の感覚を抱いたまま生活しているひと握りの人たちは、たとえ金銭や社会的名誉に恵まれていなくても、「ほんとうに幸せな人々」といえるでしょう。ぼくもそうなりたい。なりたいぞ。

     もっとも、その幸せも永遠に続くものではありません。かれらがひとりの人間としてどんなにいまを幸福だと感じていても、何十年か経てばすべて消え去ってしまう性質のものです。

     その「弱さ」、あるいは「儚さ」こそがひとつ人間のみならず、この地上のあらゆる存在の本質でしょう。その意味ではおよそ人間の行為とはひとしなみに時の波濤のまえで砂の城を築くような真似であるに過ぎません。

     どれほど壮麗な砂の城砦を建ててみせても、「時」はあっさりとそれを消し去っていく。ぼくはそのことを想うとき、古代の覇王ラムセス二世を詠ったシェリーの詩『オジマンディアス』を思い出します。

    古の国から来た旅人に会った
    彼は言った――「二本の巨大な胴を失った石の脚
    沙漠に立ち……その近くに、沙(すな)に
    半ば埋もれ崩れた顔が転がり、その渋面
    皺の寄った唇、冷酷な命令に歪んだ微笑
    工人その情念を巧みに読んだことを告げ
    表情は今なお生き生きと、命なきものに刻まれながら
    その面持を嘲笑い写した匠の手、
       それを養った心臓より生き存らえて
    そして台座には銘が見える。
    我が名はオジマンディアス、〈王〉の〈王〉
    我が偉勲を見よ、汝ら強き諸侯よ、そして絶望せよ!
    他は跡形なし。その巨大な〈遺骸〉の
    廃址の周りには、極みなく、草木なく
    寂寞たる平らかな沙、渺茫と広がるのみ。」――

     あるいは『平家物語』の冒頭でも良いでしょう。

    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
    沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
    奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
    猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

     ここで語られているものはつまり「無常」、この世界のどのようなものもいつまでもは続かないという真理です。この真理をまえにして多くの人は「栄枯盛衰の儚さ」を悟り、「何もかもむなしい」と感じるのではないでしょうか。

     時の波濤はこの世のすべてを押し流すのです。すべての花々はいつか枯れ、すべての恋びとたちはいつか別れ、すべての城砦はいつか朽ち、すべての国はいつか亡ぶ。

     その絶対の摂理、「この世界のグランド・ルール」をまえにして、いったい人生に何の意味が残るというのでしょうか?

     「朝に紅顔あって世路に誇れども、暮(ゆふべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ」。何もかも皆むなしい。無意味でしかない。そう思ってしまうことも無理ではありません。

     しかし、ぼくはこの「時の摂理」こそが人生に「歓喜」や「至福」をもたらすものだと思うのです。いずれ死に、滅ぶことの歓喜! 塵となり忘れられてゆくこことの至福!

     決してシニカルな逆説ではありません。つまり、「たゆみなく進む時の大河」をまえにした「わが身の脆さ」や「世界の儚さ」を骨身に染みて知ったそのときこそ、この世のすべてのものに対して、透きとおった蝶の翅や散りゆく桜の花びらを目にするような感動を知るのではないかと思うのです。

     すべてのものは亡びてゆく。何もかもが忘れられてゆく。人類の偉大な業績のことごとくも、この惑星そのものも、いつかは。しかし、それで良い。まったくそれでかまわない!

     「時」が正しくながれているからこそ「いま」があり、やがて死が訪れるからこそ生の歓びがある。「無常」とは「何もかもが無意味だというむなしさ」を意味するものでは決してない。むしろその反対に、時が止まらずながれるからこそ人生には価値があるのだ。そのことの「素晴らしい至福」、「大いなる歓喜」を噛みしめよう。

     ――と、ぼくは思っているのですが、ぼく自身、はっきりとそこまで「実感」できたことはまだありません。あくまで頭のなかでそういうふうに考えているだけです。なので、その「実感」にたどり着くことがぼくの当面の目標になるでしょうか。

     もうそこまで行くと陽キャも陰キャもない、「究極のリア充」といえるかもしれません。あるいはそれこそが「ハイ・プラトー・エクスペリエンス」なのかも。

     いずれにしろ、ぼくは宗教でも、自己啓発でも、せつな的快楽主義でも、スピリチュアルでもないかたちで人生を肯定したい、と思う。自己啓発やスピリチュアルが一概に悪いとはいわないけれど、それらにひたれない性格の人にとっての「救い」をめざしたい。

     この世の「底知れない無意味さ」という「虚無の深淵」をのぞき込んで、なおそれに呑まれず、「いま」を「ただ生きる」。その果てに「ほんとうに巨大な歓び」は待っているのではないでしょうか? いや、ぼくはそう思うんですよね。

     あるいはそこまでたどり着くためにはあと40年かかるかもしれません。ぼくの人生の最終目標ですね。世界の脆さと儚さを直視し、歓喜を抱いて無常を肯定せよ! はたしてその心境に至ることがあるのかどうかわかりませんが、まあ、頑張りたいと思います。 
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