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映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。
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映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。

2021-06-17 01:40

    映画版『映画大好きポンポさん』が腑に落ちない。

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     先日、すでに各地で好評を集める『映画大好きポンポさん』を観て来たのですが、いまひとつ自分のなかでどう評価するべきなのか納得が行っていないところがあって、考え込んでしまいました。

     特にクライマックスのあたりをどう解釈するべきなのか、正直、良くわからなかったんですね。

     通常、映画作りテーマの作品でも光があたることが少ない「編集」という作業にスポットライトをあてていることはわかるのだけれど、それが何を意味しているのか、主人公のジーンくんが何を選び、何を捨てているのか、明確には理解できなかった。

     そのあたりのとまどいは哲学さんと放送したYouTubeを聴いていただければわかるかと思います。

     思いっきり腑に落ちない感じで話している。

     そのことについて語るまえにまずは物語のあらすじから話をしますと、この映画の主人公は映画の都ニャリウッドへやって来て天才プロデューサー・ポンポさんのアシスタントをしている青年ジーン・フィニ。

     「えっ、ポンポさんが主役じゃないの!?」と思われるかもしれませんが、ポンポさんはあくまでそのジーンくんが召使いのごとく忠実に仕える美少女プロデューサー。『ドラえもん』でいえばジーンくんがのび太、ポンポさんがドラえもんの役どころですね。

     ジーンくんは、伝説の超大物映画プロデューサーから地盤も人脈も才能もすべて受け継いだニャリウッドいちの敏腕プロデューサーであるポンポさんのもと、映画作りのノウハウを学んでいくのですが、あるとき、ポンポさんが書いた脚本を映画化するというビッグチャンスが舞い込んできて――というところからストーリーは始まります。

     まあ、おおまかなあらすじはほぼ原作通りですね。少なくとも前半前半のあたりはほぼ原作そのまま。原作に出てこないキャラクターが顔を見せたりして気になるところもあったのですが、原作既読のぼくは「まあまあかな」などと偉そうに思いつつ、スムーズに見れました。

     ところが、映画は後半に入ると、お話は大きく原作から逸脱しはじめます。

    いったい「それ」は何を意味しているのか?

     それは、具体的には、映画の撮影が終わったあと、監督であるジーンくんが自ら映像を編集するくだりです。原作ではわずか数ページしかないこの場面が、映画では物語のクライマックスとして長々と語られます。

     じつはぼくはここがわからなかったんですよね。どう考えたら良いのか、どうにも釈然としなかった。良い話のような気はするのだけれど、いまひとつ心から納得はできないというか、ナチュラルに受け止めることができなかったのです。

     というのも、この後半で、ジーンくんはいままで撮った膨大なシーンを片端からカットしていくのですね。

     良い映画を作るためには不要なシーンを捨てなければならないという信念のもと、いままで苦労して撮ったシーンの数々を捨て去っていくわけなのですが、それでは、そうやって「いらないもの」を捨てていったあとに残るものは何なのか? かれにとっての選択の基準とはどういうことなのか? そこがいまひとつわからなかった。ピンと来なかったんです。

     良い映画を作り出すためには、スタッフがどれだけ苦労して撮ったシーンであっても、捨てなければならないことはある。それはよくわかる。その通りだと思う。でも、それでは、その良い映画、優れた作品とは何なのか?

     この『ポンポさん』という映画は一種のメタ構造になっていて、物語が進んでいくにつれ、作中のジーンくんと、作中作(映画内映画)『Meister』の主人公、天才指揮者のダルベールとが重なり合っていくようになっているのですが、そのダルベールが最後に指揮に成功する「アリア」とはどのような性質のものなのか? ええ、白状しますと、もうさっぱり理解できませんでした。

     作中の設定によると、アリアとは感情を乗せなければ表現できない曲であり、孤独で尊大なダルベールはいったんその指揮に失敗してしまいます。

     その後、ヒロインのリリィと出逢って過去の感情や思い出を取り戻し、再度挑戦して成功するのですが、そのことは具体的に何を意味しているのか? ここがどうしても判然としなかった。

    二度目の鑑賞に挑んでみた。

     そこで、しかたないので、もういちど映画館に行って同じ映画を見てきました! 日々、赤貧にあえぐぼくとしては同じ映画を二度も見に行くというのはきわめてめずらしいことです。それくらい、この映画のことが気になっていたのですね。

     ぼくがこの映画について抱いていた「謎」とはこのようなものでした。作中で、ダルベールは「感情」がなければ指揮できないアリアを成功させる。ということは、かれはリリィと出逢ったあと、「感情や思い出」を取り戻したと解釈できるはず。

     したがって、そのダルベールと重ね合わせられて描かれているジーンくんもまた「感情や思い出」、いい換えるなら「愛」を取り戻したと見ることができるはずなのだけれど、作中の描写を見ると、かれはひたすら「友情」や「生活」といったものをカットしていっている。

     これはなぜなのか? いったいジーンくんは捨てているのか得ているのか、どちらなのか? うーん、わからないよう、と。

     どうも同じような感想を抱いた人はやはりいたようで、某映画感想サイトにはこのような意見が載っています。

    「一番気になったのが追加撮影からのジーン。

    まず追加撮影で何を撮りたかったのかが、イマイチピンとこない。

    何よりマイスターのダルベールは作中劇でリリーと出会い、忘れてたものを取り戻し、それを音楽に還元したのでは?

    ジーンが映画以外を削ぎ落として作品を完成させたのならそこが一致してないのがモヤモヤする点だった。

    結局削ぎ落とすのか、拾うのかがわからなかった。

    「アリア」というワードも急に出てきた感じがしてしまう。後半にテーマ(情報量)が増えてちょっと集中しにくかった。」

    https://eiga.com/movie/91732/review/02568914/

     そうそう、ぼくもそう思ったのよ。ジーンくんは自分にとって大切なその他のものを捨てて、犠牲にして、映画を選んだように見える。

     しかし、作中作のダルベールは「忘れていたもの」を取り戻して、アリアの指揮を成功させている。その意味でふたりは同じではない。それにもかかわらず、かれらは重ねあわされて演出されている。これは矛盾ではないのか、と。

    ジーンくんは「映画の鬼」になったのか?

     もし、ジーンくんは映画を作るという目的のためだけにすべてを捨て去って、ただ最高の映画を撮ることだけを目指す一匹の修羅になり果てただ、ということならそれで良いし、それはそれで凄い話なのですが、どうもそういうふうにも見えない。

     創造や芸術の傲慢と狂気を描く、たとえば芥川龍之介の「地獄変」とか、そういう系統の物語だとは思えないのです。

     たしかにかれは自らの「狂気(映画作成を至上目的とする傲慢なエゴ)」の命じるまま、「映画にとって不要なもの」すべてをカットし、自らの人生を重ね合わされた映画を編集しつづけるのですが、論理的に考えるなら、かれが最終的に「これがぼくのアリアだ!」と叫ぶほどの傑作を作ることができたのは、そこに「愛」があったからであるはず。

     そうでなければ、「ただの傑作」はともかく、「かれにとってのアリア」は撮ることができなかったと思うのですね。

     LINEで色々と話をしたところ、狂ったように編集にこだわるジーンくんの姿に、『シン・エヴァ』の庵野秀明さんを重ね合わせて見た人もいたのですが、ぼくが思い出したのはむしろ『かぐや姫の物語』の高畑勲さんでした。

     高畑さんは映画を一本作るために、ほんとうに人が死んでしまうところまで追い込むような作り方をしているわけですよね。作品至上主義をつらぬいて、それでほんとうに死者が出ている、ということはまことしやかに語られているところです。

     これはもう、映画の鬼というか修羅というか、そういう境地であるわけですが、ジーンくんがめざしたのもそういうところなのか。それだったらそれで凄いけれど、どうにもそうは思えない。

     いや、高畑勲ではなく、宮崎駿の『風立ちぬ』でもかまいません。あの映画は、おれは自分が美しいと思うもののためなら人も殺すし国も滅ぼすんだ、良い仕事をするとはそういうことでしかありえないんだ、というテーマであったように思います。

     『風立ちぬ』はそれによってものすごい傑作になっているのですが、ジーンくんもあの映画のなかの堀越二郎と同じような道を往こうとしているのか?

    ジーンくんはなぜ「かれにとってのアリア」を撮れたのか?

     そう、ジーンくんが捨てて捨てて、最後に残そうとしたものは何だったのか?と思ったのですね。作中作のダルベールの場合、それは家族との思い出、家族への愛だった。それでは、その作中作を撮っているジーンくんにとっては何だったのか?

     映画はかれとダルベールが重なるように作られているので、かれにもまた何らかの愛があるはずであるという結論が出て来そうなのだけれど、そうなのか? ジーンくんは映画しか愛していない男だったのではないのか? そんなかれの「アリア」とはどのようなものなのか? そこがどうしても解釈し切れなかった。

     ダルベールは家族への愛があったから感情がこもるアリアを指揮できた。それはわかる。理解できる。では、ジーンくんはなぜかれにとってのアリアである『Meister』という映画を作れたのか? そこがわからない。

     ただ映画しか愛していない男にダルベールにとってのアリアに相当するような映画が作れるのか?

     ここで気になるのがジーンくんがすべての撮影が終わったあと、スケジュールを延長してまで追加撮影するシーンです。

     それはダルベールと家族との確執と別れの場面であるわけなのですが、これはつまり、ジーンくんはダルベールが家族を愛していることを説明するシーンがこの映画には必要不可欠だ、それがダルベールの音楽の核心なのだから、とそう思ってその場面を撮影したのだと見るべきだと思うのです。

     しかし、それだったらこの『映画大好きポンポさん』という映画にも、ジーンくんにとってのコアのところにあるものを説明する箇所が必要なんじゃないの?と思ったんですよ。

     まあ、随分と長々と話してしまいましたが、ぼくはその点がどうにも納得がいかなくて、それでこの映画の評価を保留していたわけです。「どうやら傑作のような気はするけれど、まだ断定できないぞ」と。

     
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