メガーさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
初めに書いておきます。この記事は非常に長く読みづらいかもしれませんが、今後、「ゆるオタ残念教養講座」を読んでいきたいと考えておられる方は、ぜひ、最初から最後まで熟読してみてください。
おそらくこれから先、このブロマガで展開される議論はこの記事で書かれたことを前提としたものになるはずだからです。はっきりいって快心にして渾身の力作記事です。いままでぼくが書いた記事のなかでもベストかもしれない。
アクセスのことだけを考えるならいくつかに分けて投稿するべき内容かもしれませんが、読者の皆さんの理解を考えて、あえて一本の記事にしました。自分ではおもしろい内容だと思っています。どうかどうか、読んでみてください。お願いします。
さて、数日前のことです。ぼくは自分で「界隈」とか「身内」とか呼んでいる友人たちと集まってお酒を飲んできました。異様にディープなメンツが集まっていますから、当然のごとく話は盛り上がり、ぼくは多くの示唆を受けるとともに「クンフー」「アンカー」「コーリング」「ジェネレーター」「親というロール」「契約主義」「契約弱者/契約強者」「ア・プリオリな家族/再帰的な家族」「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」といったわけのわからないオリジナル用語(笑)をインストールされて来ました。
ここにぼく自身の言葉である「光属性/闇属性」「根拠のない自信=自己肯定感=健全な自己愛」「脱ルサンチマン」などを加えると、ほぼ議論の全貌が見えてくることになるのですが、そうはいってもこれらの言葉を見ただけでは何のことやらさっぱりわからないでしょう。
たぶん、このブロマガとペトロニウスさんの物語三昧( http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/ )を並行して読んでいるツワモノでもすべてを把握することは困難だと思う。そこで、今回はこれらの用語の意味を整理し、ぼくたちがなんの話をしているのか、その全体像を探ってみたいと思います。
正直、ぼく自身がどこまで理解しきれているかわからないので、あいまいな話になるかもしれませんが、どうか付いてきてください。とてもおもしろい話だと思います。
さて、それではどこから話すべきか。まずはたぶん「家族の崩壊」から話を進めるべきでしょう。ペトロニウスさんはこういうふうに書いています。
とても長くなりますが(苦笑)。そもそも、
恋愛って何?
ということを、高校生ぐらいに考えたことから始まります(笑)(←おまえなんやねん!)。そんで、このころからちゃんと分析の基本を僕はわきまえていたようで、物事を考える時には、縦軸と横軸が必要で、そのうちの縦軸(=時系列の変遷)について考えたのですね? 簡単に言えば、どっかの歴史の教科書とか社会学の本でも何でもいいから、恋愛の歴史ってないのかな?って。←明らかに頭のおかしい高校生男子です(笑)。普通、そんなこと考えねーよ。
そうするとね、あるんですよ、これが、恋愛=ロマンチックラブってのは、西欧社会で生まれた特殊な概念で、明治期の日本には「輸入」された概念なんだそーです。これは、近代産業社会において不可欠な「個の労働者」を「再生産」させるために作られた「核家族」というものを支えるイデオロギー装置だったことは、ほぼ解き明かされていることみたいです。機能的には、専業主婦による家内の再生産をベースに、外に労働者として働きに出る男性を確保+次の世代の子育てをすることによって社会のサスティヴィナリティするっていう核家族のことです。まーこれがほんとなの?とかそういうことは、学者ではない僕にはわかりませんが、まぁ、思考のベースとして、なるほど、非常に理解しやすい出発点です。アメリカや西欧社会の基本の対人関係性モデルでもあるし。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1
つまりは、近代社会とは「恋愛(ロマンティック・ラブ)」によって結びついた男女が、それぞれに家庭(核家族)を作り、男性は外で働き、女性は子供を育てるという形で維持されるシステムだということです。
ぼくも学者ではないのでその議論の真実性について突っ込んだことはわかりませんが、とりあえずこれが議論の前提となります。
それでは、そのロマンティック・ラブとはどこからやって来たものなのか? 「物語三昧」によると、それは騎士道(チルバリー)から来たものであるらしい。
つまり、騎士、貴族階級の次男以下に生まれ、ほとんどまともな権利を与えられなかった人々が、貴婦人たちにささげた純粋で純潔な宮廷的愛(courtly love)に起源がある。
そしてこれが17世紀から19世紀あたりに社会のリベラル化、つまり自由意志による選択の普及と並行して一般化し、さらにそれが核家族を求める社会の利益とマッチして「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」と呼ばれる思想にまで高まっていくのだということです。
ひととひとが恋愛し、「つがい」、家庭を作り、そこからまた新しい世代を生み出していき、社会そのものを持続させるという近代社会のシステムはこうして生まれたのでした。
しかし、当然、それは近代においてなかば人工的に作られ、さらには日本へ「輸入」されたシステムなので、「個」より「家」を重視する日本の旧来のシステムとは軋轢を生みます。とはいえ、そうでありながらも、なんとか百数十年もの時をかけてこのシステムは普及していったのでした。
ここまでが話の前提(長いけれど、我慢してね)。そして、現代においてはその「ロマンティック・ラブ・イデオロギーにもとづく核家族社会システム」がものすごい勢いで崩壊しつつある(!)ということが、これまた、「物語三昧」で書かれている現状認識です。
なぜそういうことになったのか? それはつまり、日本がこのシステムに則って内需拡大を続けられた幸福な時代(日本が「東のエデン」であった時代)が終わり、アジアや南米などの新興国で急速に勃興しつつある中産階級に日本の中産階級が仕事を奪われていく新しい時代が訪れたからです。
広く見れば、すべてはグローバリズムに原因があるわけです。で、ここは注意するべきポイントなのですが、これは「だからグローバリズムは悪なのだ!」という議論ではありません。
日本のことだけを見ていれば、たしかにグローバリズムは平和な家庭を壊す悪のファクターと見えるかもしれませんが、それは新興国の貧しい人々をものすごい速度で救い出しているのです。日本人だけを特別視する視点を外してみれば、グローバリズムにはやはり大きな意味があると考えざるをえません。
つまり、「日本の中産階級の没落=核家族の崩壊」は倫理的に見ても当然の帰結であり、どうしようもないことなのです。ぼくたちはこの事実を受け入れなければならない。そして、この状況認識からすべての話が始まります。
さて、ここで話は少し横道に逸れますが、ぼくはよく「光属性」「闇属性」という言葉を使います。光属性とは、自分の存在を無条件で肯定でき、わけのわからない不安や劣等感を持っていないひとのことです。一方、闇属性とは自分の存在に強い懐疑を抱いていて、大きな不安なりルサンチマンを抱えた人種のこと。
割合にすると、光属性のひとはきわめて少なく、闇属性のひとのほうが圧倒的に多数派です。しかし、これは必ずしもどちらが優れているといった議論ではありません。光属性のひとは日々を明るく楽しく生きられるかもしれませんが、闇属性のひとがコンプレックスをバネに行動するエネルギーにはかなわないかもしれないのです。
ぼくは西村博之さんや乙武洋匡さんや光属性のひとなのではないかと考えています。一方、ぼくなどは完全な闇属性の人間です。コンプレックスの塊だからです。
さて、それでは、この闇属性、光属性という個性の差はどこから生まれてくるのでしょうか? もちろん生まれつきの個性の違いも大きいに違いありませんが、最も大きな差を生むのは家庭環境であると考えられます。
家庭において、親から無条件の愛情と承認を与えられた子供たちは、長じて自分に強い自己肯定感(ぼくがいうところの「根拠のない自信」、心理学でいう「健全な自己愛」)を持つようになります。
かれらは人生に対して過度の恐怖心を抱かないでしょう。なぜなら、たとえ何かに失敗してすべてを失ったとしても、自分に対する肯定感そのものは失われないからです。つまりは心の奥に決して壊れないダイヤモンドを持っているようなものです。
一方、家庭環境が「壊れて」いて、親から十全な愛情や承認を得られなかった子供たちは、どうしても「根拠のない自信」を育てることがむずかしい。「いったい自分は何のために生まれたのか?」「自分はだれにも必要とされていないのではないか?」「だれも自分を愛してくないのでは?」といった懐疑に付きまとわれるのはこうした子供たちです。こういったことに頭を悩ませる時点で、そのひとは闇属性なのです。
これは「必ずそうなる」という話ではありません。どんな悲惨な家庭に生まれても、明るく生きているひとはいるでしょう。その逆もあるでしょう。ただ、全体として見れば、やはり健全な家庭から光属性の子供が生まれる可能性のほうが高いと思います。
しかし、繰り返しますが、その光属性の子供を生む母胎となる「ロマンティック・ラブ・イデオロギーにもとづく核家族」が凄まじいスピードで崩壊しているのが現代なのです。
したがって、ぼくたちは「闇属性になってしまった人間が、どうやって生きていけばいいのか」、その処方箋を考えなければなりません。それができなければぼくたちに一切の希望はないでしょう。
なぜなら、「健全な家庭の愛情にもとづく自己承認を得られなかった人間はどうやっても幸せになれない」という結論に至ってしまうからです。それでは困る。ぼくは闇属性でも幸せになれる道を模索したいのです。ですが、そんなものがあるのでしょうか?
その前に現代日本の漫画やライトノベルの話に飛ばせてください。話が拡散していくようにみえるかもしれませんが、ちゃんとあとで集約されるので大丈夫。
さて、最近の漫画やアニメやライトノベルでは、「ほんとうの友達」「絶対に信じられる仲間」といったテーマが前面に出てきています。
その最大の傑作は『ONE PIECE』でしょうが、そのほかにも『けいおん!』、『Working!』、『僕は友達が少ない』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』などなど、このテーマを扱ったヒット作は数多いのです(そういえば『魔法少女まどか☆マギカ』もこの系譜ですね)。
現代の最もホットなテーマだといって差し支えありません。なぜ、こんなにも「友達」や「仲間」を求めてやまなくなっているのか? これはすなわち「擬似家族」を作りたがっているのだ、というのがペトロニウスさんの分析です。慧眼だと思います。
ぼくはかつて「仲良し空間」とかいっていましたが、つまり、ここでは「無条件な愛情と承認を与えてくれる健全な家族」のイミテーションが求められているのです。ようするに「ア・プリオリ(先天的な、無条件な)な家族」が崩壊しているから、その代替物として「再帰的(人工的な、条件付きの)な家族」が必要になったということです。
ところが、ここで決定的な問題が発生します。つまり、家族というからには、親がいなければならない。「愛情を求める子供」だけでは家族は成り立たず、だれかが「愛情を与える親」というロール(役割)を引き受けなければならないのです。
しかし! 自分自身が十分な承認を与えられておらず、存在の不安を抱えたままの闇属性の人間は、簡単にはこの「親というロール」を引き受けることができません。
あまりにも当然のことではありませんか? ひとに十分に愛されていないと感じる人間がだれかを愛することができるでしょうか? これが「再帰的な家族=友達同士で形成される仲良し空間」の最大の弱点です。「もっとぼくを愛して!」と泣き叫ぶ子供だけでは、擬似であれなんであれ家族は成立しないのです。
このテーマのライトノベルの最高峰であるところの『僕は友達が少ない』を見てみましょう。ここでは、完璧な愛を受けて育った光属性の少女、星奈と自分自身にまるで根拠を見いだせない闇属性の少女、夜空がきれいに対置され、対比されています。
それでは、この擬似家族空間において「親」の役割を務めているのはだれでしょう? だれが飢えた子供たちに愛情を注いでいるのでしょうか? いうまでもなく、それは星奈です。
光属性である彼女は、あたかも心に無限に湧き出る愛情の泉を抱えているかのごとく、周囲に愛情を注ぐことができます。彼女が「親というロール」を引き受けているからこそ、隣人部という擬似家族=仲良し空間は成立するのです。
一方、闇属性の夜空はどうあがいても「親」にはなれません。つまり、彼女は「娘」であり、愛情を受け取る立場なのです。だからこそ彼女は「親」である星奈に向かって「お前なんかいなかったらいいのに!」と反抗します。
そして、愛情あふれる「親」である星奈はそんなことをいわれても、「自分はそんなことは思ったことがない」と哀しげに呟くだけです。つまり、星奈と夜空の関係は非対称であり、夜空はひたすらに愛情に飢えているばかりで、だれかに愛情を与えることはできないのです。
ちなみに、夜空が主人公とのあいだに作ろうとしたものは、まさにロマンティック・ラブにもとづく擬似核家族ですね。しかし、現代においてはそんなものはなかなか成立しないので、夜空の計画は自然と無に帰します。
最新刊でついに彼女は隣人部を去ってしまうのですが、これはようするに「家出」だと考えるとわかりやすい。『僕は友達が少ない』とは、いかにしてこの「愛情に飢えた娘」をロマンティック・ラブという崩壊した価値観以外のものによって救済するか、というテーマの物語です。とても現代的ですね。ヒットするわけです。
さて、ここまで考えてみると、『はがない』における隣人部が成立していたのは、光属性の星奈がいたからだということがわかります。彼女はそもそも無条件の前提を持たない「再帰的な家族」の崩壊を食い止める「アンカー(いかり)」の役割を果たしていたのです。
このアンカーがいるかどうかが、再帰的な擬似家族が成立するかどうかを分かつポイントになります。それでは、闇属性の人間だけでは擬似家族を作ることは不可能なのでしょうか? しょせん闇属性の人間は与えられるばかりで、与えることは不可能なのでしょうか?
ここで話は次のレベルに移ります。すなわち、「自分自身、十分な愛情と承認を与えられていない闇属性の人間がどうすればアンカーになることができるか」。
そのためにはまず「契約主義」という言葉を理解してもらわなければなりません。「契約」とは何か? それはつまり、自分の人生を決めることであり、何を捨て、何を得るかを選択することです。
たとえば、「自分は漫画を読んで生きていく」とか「自分はサッカーをやって暮らしていく」と自分で決めてしまうこと。それが「契約」。そして何かしらの契約を結んで生きているひとを「契約主義者」といいます。
たとえば、ぼくは幼い頃、「一生、読書をして生きていきたい」という契約を結び、その線に沿っていままで生きて来ました。契約主義者は自分が何を手に入れたいのか、そのために何を捨てなければならないのか、明確に意識しています。いわば心のなかに「契約書」を持っているのです。
自分自身を無条件に承認できず、生きるためのエネルギーが不足している闇属性の人間でも、契約さえ結べば動き出すことができます。かれらのエネルギーは愛情と承認ではなく、コンプレックスやルサンチマンそのものなのです。
かれらはいわば闇から活力を得て動く生き物です(なんという中二病言説!)。時としてそのパワーは光属性の人間の健全な力を上回るでしょう。
しかし、それでもなお、本人が幸せになれるとは限らない。どこまで行ってもコンプレックスで駆動している人間は辛い。だから、ひとに無条件の承認を与えなければならない「アンカー」になることはむずかしいのです。こういう契約主義者のことを、ここでは「契約弱者」と呼ぶことにしましょう。
一方、自ら契約を結ぶのでなく、運命に選ばれ、それしかありえないという道を進むことになるひともいます。つまりは「神の声を聞いた」人々。そういう神秘的な体験のことをプロテスタンティズムの概念から採って「コーリング」と呼びます。
コーリングを受けたひとはしばしば「天才」と呼ばれますが、かれらはある意味で「運命の奴隷」です。それしかありえないという道を進むしか人生の選択肢がないのです。
具体的な例としては、『ハチミツとクローバー』のはぐちゃんを思い浮かべてください。『ハチクロ』のクライマックスに、彼女がが教室で窓の外の光と約束する場面があります。「これから自分は絵を描いて生きていく。全人生をそのためにささげる」という神聖なる約束。彼女はそのために自分のすべてを費やすのです。これが「コーリング」であり、「天才」です。
しかし、それでは天才ではなく、なおかつ光属性でもないぼくたちはどうすればいいのでしょうか? 一生、無気力に「自分はダメだ」「生きていることが辛い」といって惰性で生きるか、さもなければ契約を結んでコンプレックスを代償に努力しつづけるしかないのでしょうか?
そうかもしれません。しかし、ここに一本の道があります。細い、ほんとうに細い、「契約強者」への道です。これこそが闇属性の人間にとっての最大にして最後の希望だと思うのです。
契約強者とは何者なのか。それはつまり、絶え間ない「クンフー」の末に契約そのものの起源を忘れさってしまった人物のことです。ぼくたちの仲間内でいうと、LDさん(@LDmanken)がこれにあたります。
契約強者もまた、一種の契約主義者であることは間違いありません。かれも人生のどこかで「こうやって生きていく」と決定し、そのために何を捨てるかを選んだはずなのです。しかし、そこから先が違う。
かれは日々、目の前の好きなことに集中しつづけます。このことを「クンフーを積む」というのですが、LDさんの場合でいえば漫画やアニメを消化しつづけるわけです。それはあるいは初めはコンプレックスに根ざす行為であったかもしれません。
ところが、続けるうちに行為そのものが目的化していく。『HUNTER×HUNTER』のネテロ会長が「感謝の正拳突き」を10年間も続けたように、ひたすらに目の前にある課題そのものに没頭しはじめるのです。
そこには目的もなく、結果を求める心理もありません。ひとの評価、承認などはこれっぽっちも必要とされてはいません。つまりは、クンフーを積むという行為は、闇属性の人間が少しずつ闇を抜け出ていくための方法論なのです。
そうしてそうやって何年もクンフーを積みつづけていると、やがて心のなかの「幸福のジェネレーター」が回りはじめ、人間として幸せになってきます。自己完結した永久機関ともいうべきシステム。
それはそうでしょう。ひたすらに好きなことばかりを続けている上に、その行為を通じてさらにそれを好きになっていくのですから。幸せに違いありません。こういうことを、そうですね、10年も続ければ契約主義者であっても、「契約の起源」を忘れ去ってしまうのです。
自分が何を代償にささげたのか、もはや思い出すことはできません。ただ延々とジェネレーターを回し、より幸福になっていくプロセスが続くばかりです。これこそ「契約強者」です。
いちど直接ふれてみればわかるように、LDさんの思索は圧倒的な密度と分量があります。しかし、かれはペトロニウスさんが誘わなければ自分でブログを作ろうともしなかった。そういうことなのです。
かれほどのレベルに達するともはや「ひとからの承認」はどうでも良くなっているのだということ。つまりは愛情と承認という光のエネルギーでもなく、コンプレックスとルサンチマンという闇のエネルギーでもなく、ただ「それが好き」というあたりまえの想いで動いているのだということです。
こういうひとは生まれは闇属性であっても再帰的な家族のアンカーになることができます。生きる動機を自分自身から調達し、それを周囲に分け与えることができるからです。いいえ、本人にとっては分け与えているという自覚すらないでしょう。ただ、そこにいるだけでアンカーになりえる存在、それが契約強者です。
もはやかれの行動や能力は最大級の愛情を受けた光属性の人間や、コーリングを聴いた「天才」とすら区別がつきません。あるいはそれ以上の力を持っているといっても過言ではないでしょう。これが闇属性の人間が行き着くところです。
ひとからまったく愛情や承認を与えられていなくても、10年、20年、何十年とクンフーを積み、ジェネレーターを回しつづければこのような境地に立つことができるのです。これからの社会で求められているのは、こういう闇属性でありながら闇をも超えたアンカーであることでしょう。
と、こういうところまでぼくたちの議論は来ています。問題はそのクンフーを積み始めるために必要な「「好き」という特異点」をどう見つけるかということ。それがなければクンフーを積むことはできず、ジェネレーターも回りはしないのですから。おそらく今後のぼくやペトロニウスさんの思索は、こういった話の上に成り立っていくでしょう。
さて、以上です。こんなに長い文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。あなたの人生にあたたかな光が差し込みますように。この話はまだまだ先へ続きますので、よければこのブロマガを購読してください。よろしくお願いします。 おしまい。
家族ではなく家族ごっこの話?
子は親の愛情を求めてるのになんで愛情も承認もない契約強者がアンカーと成り得るの?
共依存なんかである愛という報酬を得るために愛を与えるっていう構造はダメなの?
ここでいうひとを愛するっていうのは個人を愛するって意味ではなく全てのを人を愛するっていう博愛主義的な意味なの?
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