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森恒二『自殺島』がひとつのクライマックスを迎えている。物語そのものはまだまだ続いてゆくのだろうが、作中の社会がある種の限界に近づいているのだ。何かちょっとしたきっかけでカタストロフィに落ちてゆかないとも限らない危機的な状況。
そのなかで主人公のセイたちはまたしても決断を迫られることになる。何とか捕まえた「敵」の捕虜をどうするかという決断。リーダーであるリュウは処刑してしまうことを望むが、人々の想いは錯綜する。はたして何が「正しい選択」なのか? だれにもわからないなかで、時ばかりが過ぎてゆく。
もともと過酷な状況下のサバイバルを描く漫画には違いなかったが、ここに来てその過酷さはいっそう増してゆくようだ。セイたちが属する小さな社会(コミュニティ)は、凶猛な男サワダが支配する「もうひとつの社会」との対立と対決のなかで、崩壊寸前にまで追い込まれている。
ひとつのミスが死や、死よりも辛い運命に直結するかもしれない極限状況だ。すべてが原始社会のレベルに回帰しているといってもいい。このシビアな状況でいったいどんな決断が下されるのか。今後の展開に期待したい。
ところで、この「捕虜か処刑か」という選択は名作ゲーム『SWAN SONG』を思い起こさせる。『SWAN SONG』でも、捕らえた敵をどう処遇するかという選択を突きつけられる場面があった。
捕虜のままにしておくなら、乏しい食料をかれらにも与えなければならない。しかし、「処刑」するなら、秩序が回復したあとに「殺人」の罪を背負わせられることになる可能性がある。どうにもどうすることが正しいのか見えない二律背反のシチュエーションだ。
それにしても、こういった作品を見てゆくと、「死刑」というシステムについてあらためて考えさせられる。『自殺島』や『SWAN SONG』が突きつける「問い」は「死刑は正しいのか」という普遍的な問いを極限化したものである。
あるいは「凶悪な敵を」「自分の手で」「殺すかどうか」という選択は、「罪を犯した者を」「だれか見知らぬ人に」「処刑してもらうかどうか」という選択とはまったくべつのものに思えるかもしれない。
たしかにひとを処刑するプロセスをだれか見知らぬひとに代行してもらえば、自分の手は汚れない。しかし、それはただ表面をつくろっただけのことで、死刑というシステムが一種の殺人行為であるという現実は何も変わりはしないのだ。
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